住吉の宮は現在の布市神社にあたります。もとは富樫郷(とがしごう)住吉(すみよし)神社と呼ばれ、旧一日市通(ひといちとおり)・中通(なかとおり)・六日通(むいかとおり)(一日市町・中町・六日町の現本町2・3丁目)の鎮守でした。
富樫家國(いえくに)が野々市に館を構えたとき、敷地内に社殿を造営したと伝えられ、その時期は1009年(寛弘(かんこう)6)とも1063(康(こう)平(へい)6)ともされています。
1914年(大正3)、旧西通(にしとおり)(西町(にしまち)・現本町4丁目)の鎮守であった照日(しょうじつ)八幡(はちまん)神社と旧荒横通(荒町(あらまち)・現本町1丁目)の鎮守であった外守(そでもり)八幡(はちまん)神社を合祀(ごうし)して布市神社と改名しました。
また、旧北陸道と押野へ向かう道の交差点にあった辻(つじ)の宮(みや)と住吉川の上流にあった天神堂(てんじんどう)を境内に移転しています。
照日八幡神社は建久(けんきゅう)年間(1190〜98)に富樫家春(いえはる)が勧(かん)請(じょう)し、天(てん)正(しょう)年間(1573〜91)に本町4丁目に移ったと伝えられ、1918年(大正7)、社跡に当時の社標を残すとともに碑が建てられました。(本7・38)
布市神社
13-1●富樫(とがし)氏(し)先業碑(せんぎょうひ)
神社鳥居の右側にあるこの石碑は富樫氏の事跡を後世に伝えるため、1889年(明治22)に野々市村の篤志家(とくしか)水(み)毛(も)生(う)伊(い)余(よ)門(もん)が建てたものです。富樫氏とゆかりのある大乗寺住職麟童による碑文は、祖を富樫忠頼(ただより)とし、富樫政親(まさちか)が1488年(長享2)一向一揆に滅ぼされるまでの約500年間を刻みとめています。(本38・46)
先業碑
13-2●木村(きむら)孝信(たかのぶ)館跡(やかたあと)
一向一揆の有力指導者であった松任城主鏑木(かぶらき)右衛門(うもん)大夫(たいふ)の婿となり、野々市の出城を預かったと伝えられています。また、豊臣(とよとみ)家四天王の一人木村(きむら)重成(しげなり)の伯父ともされ、館の跡は布市神社から北側一帯と伝えられています。(本18・38)
13-3●大公孫樹(たいこうそんじゅ) 1967年(昭和42)2月11日町指定
高さ約20m,幹回り約5m,樹齢推定約500年と大変立派な銀(い)杏(ちょう)の木です。一説として、さきの木(き)村(むら)孝(たか)信(のぶ)の墓標との言い伝えがあります。(本18)
13-4●聖護院(しょうごいん)道興(どうこう)歌碑(かひ)
1486年(文明18)に京都聖護院の僧である道興が野々市を通過したおり、「風をくる一村雨に虹きえてのの市人はたちもをやまず」と詠(よ)み、にわか雨の中でも商いを行う活発な人々の姿を書きとめています。(本37)
13-5●雨乞石(あまごいいし)(弁慶(べんけい)の石)
もとは照日八幡神社にありました。明治以前に旱(ひでり)で水が不足したとき、この石を担(かつ)いで町内を廻ると雨が降ったことから雨乞石の名がついたと言われています。また、義経が奥州に降る途中、家来の弁慶が富樫の館に立ち寄よって、余興にこの石を軽々と扱い遠くに放り投げた伝説があり、本町6丁目地内には、この石が落ちたとされる「力石(ちからいし)」の小字名が残っています。(本38)
この石は、若い衆が「盤(ばん)持(も)ち」と呼ぶ力比べのとき担いだ力石とも考えられ神聖視(しんせいし)されていたことでしょう。
13-6●脇差(わきざし) 1996年(平成8)3月1日町指定
布市神社には3振(ふり)の神刀(しんとう)が伝わっています。最も古いこの脇差は1467年頃(応仁(おうにん)期)、野々市に住んだ信長(のぶなが)の作とされ、長さ48.0cm、反りは0.6cmで、室町時代後期の製作と考えられています。他の2振は1600年頃(慶長(けいちょう)期)の脇差です。(本38)
脇差(布市神社蔵)
13-7●馬市(うまいち)跡(あと)
富樫政親(まさちか)と一向(いっこう)一揆(いっき)の戦いを描いた「官地論(かんちろん)」に、高尾城(たこおじょう)攻撃のとき「野市(ののいち)馬市(うまいち)に陣を取る」の記述がみられ、1488年頃に馬市の存在を推定できますが、詳細は不明です。(本18)
加賀藩は、馬市を17世紀後半から金沢の浅野川馬場で行い、場所を野々市に移して最初の馬市は、1857年(嘉永(かえい)7)6月に住吉の宮の社地で行われています。能登や越中から多くの牛馬を集めた馬市は最初年1回でしたが、1868年(慶応(けいおう)4)には冬季をのぞくほぼ毎月に開催する賑いになりました。明治以降、会場は個人地へ変り、1917年(大正6)に市場法の実施から再び金沢へ移転しこの地での開催はなくなりました。(本38・39)
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