古くは「野市」と書いたことが白山(しらやま)比(ひめ)神社蔵1312年(正和1)の文書で確認できます。加賀守護(しゅご)富樫氏の守護所(しゅごじょ)が置かれたとされ、『官地論(かんちろん)』にみられる「野市馬市(うまいち)」の地名などから、鎌倉〜室町時代に加賀国の政治・経済の中心地であったことが広く知られています。
富樫氏は一族の分裂と1488年(長享(ちょうきょう)2)加賀一向(いっこう)一揆(いっき)の攻撃による守護富樫政親(まさちか)の敗北とともに衰退します。その後1546年(天文(てんもん)15)に、加賀一向一揆の象徴となる金沢(かなざわ)御堂(みどう)が創建されると加賀の中心は金沢へ移りました。
1580年(天正8)年、一向一揆と争う織田信長の軍勢が加賀に乱入した壮絶な戦いで、野々市は焼け尽くされたことが伝わっています。
江戸時代の野々市は、金沢城下から上方へ向かう北国街道最初の宿駅(しゅくえき)となりましたが、城下町として隆盛する金沢とは対照的にかつての賑いを失い、一大消費地である城下近郊の農業地帯として発達しました。1689年(元禄(げんろく)2)の家数は293で、江戸時代の名産品として野々市煎餅(せんべい)と野々市草履(ぞうり)が有名でした。
明治後半から大正にかけて、金沢と松任を結ぶ松金(しょうきん)馬車(ばしゃ)鉄道(てつどう)や野々市と鶴来間の石川電気鉄道(現北鉄石川線)開通など交通と周辺地域における経済の要地となりました。
1924年(大正13)から町制を施行し、1955年(昭和30)に富(とみ)奥(おく)村と合併して新たな野々市町が生まれました。そして、従来の野々市町区域は本町1〜6丁目・若松町・横宮町・住吉町・高橋町・扇が丘・菅原町・白山町に名称が変更されています。
(本18・37)
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