(画像をクリックすると別ウィンドウで拡大表示されます。)

  <<前のページへ    次のページへ>> 

B26●富樫(とがし)館跡(やかたあと)
本町2丁目・住吉町周辺
ののいちガイドマップ
 富樫氏は、藤原利仁(ふじわらとしひと)の流れをくむ加賀斎藤氏の一族で高橋川中流域の富樫郷を拠点としました。利仁から七世の家国(いえくに)が「富樫(とがしの)介(すけ)」を称したことが富樫氏の始まりとされ、1063年(康平6)野々市に館を築いたとも伝えられています。

 同じ斎藤氏の一族で先に勢力を強めていた林(はやし)氏が、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱(らん)で朝廷方(ちょうていがた)につき衰退(すいたい)したことから幕府方(ばくふがた)であった富樫氏は加賀最大の武士団に発展しました。

 鎌倉時代は守護(しゅご)北条(ほうじょう)一門の代官(だいかん)を務めていましたが富樫高家(たかいえ)が南北朝内乱期の戦功から、1335年(建武(けんむ)2)に一族で初めて加賀守護となりました。守護所を野々市に置いたとされ、富樫館が守護所とも考えられています。

 その後、富樫氏は分裂し1488年(長享(ちょうきょう)2)加賀一向(いっこう)一揆(いっき)の攻撃とそれに加わった一族の富樫泰高(やすたか)によって守護富樫政親(まさちか)は敗北し高尾城(たこおじょう)は落城します。泰高は守護となりましたが、実権は一向一揆がもつことになり富樫氏は衰退していきました。

 防御(ぼうぎょ)のため館の周囲に築かれていた土居(どい)の一部は、江戸時代の1958年(安政5)森田平次によって測量図として記録されています。土居の跡は大規模で、東西の土居は長さ60.5間(約110m)、南北に2筋みられる土居の長さは、東側67間(約122m)西側48.9間(約89m)となります。幅は広いところで4.7間(約8.5m)もあります。測量図の水路や道が耕地整理以前の地図と一致したことから館跡の区域がだいたいわかってきました。(本8・37・38)


富樫館跡図(野々市小史から転載)

 1994年の調査では土居の外側に設けられた堀の一部分を確認しました。富樫館跡の遺構(いこう)としては初めての発見になります。この堀は館の西面にあたるものと推定され、館の位置を知る貴重な手掛かりとなるものです。堀跡はV字形に掘られ、幅が約6m、深さ2.5mの規模でした。この堀からは陶磁器や鏡が1点出土しています。


富樫館跡推定地

 出土品する陶磁器類が14〜15世紀の年代に限られることで、富樫高家の時代から居住した館跡とも考えられます。家国が野々市で最初に築いたとされる館に関してはわかっていません。

 発掘調査の面積が小さいことから館跡の全貌は不明ですが、小さくても1.5町(約164m)四方の規模があったものと推定されます。この館を中心に、周辺には重臣の屋敷と庶民による「野市(ののいち)」の町が形成されにぎわっていたことでしょう。(本41)



富樫館跡の堀跡

 裏面の文様は鳥(鶴か)2羽と亀1匹の意(い)匠(しょう)で、製作年代は室町時代と考えられます。奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)に同型の鏡が奉納されています。





  <<前のページへ    次のページへ>>