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B08●大乗寺(だいじょうじ)跡
押野1・2丁目・横宮町・本町1・2丁目付近
ののいちガイドマップ
 大乗寺は現在金沢市長坂(ながさか)に所在しますが、もとは1261年(弘長(こうちょう)1)に富樫(とがし)家尚(いえひさ)が押野庄野市(ののいち)の外守(そでもり)にあった泰澄(たいちょう)大師(だいし)作の大日(だいにち)如来(にょらい)を安置する大仏堂の境内に一寺を建立し、「大日山大乗寺」と称したことが始まりとされています。

 1289年(正応(しょうおう)2)に永平寺から徹通(てっつう)義介(ぎかい)を招いて真言宗(しんごんしゅう)を曹洞宗(そうとうしゅう)に改め、徹通を大乗寺の第1世としました。

 第3世の明峰(みょうほう)素哲(そてつ)の代には、1346年(貞和(じょうわ)2)に押野庄の地頭(じとう)富樫家善(いえよし)から田地5町と敷地の寄進(きしん)を受けるなど富樫氏との密接な関係が窺われます。その寄進状には土地の範囲について「限東山王西江、限南富樫堺、限西白山大道、限北敷地堀」と記されています。また南北朝期からは室町幕府の祈願所(きがんじょ)となっています。

 1488年(長享(ちょうきょう)2)の一向一揆の際、一揆方の富樫泰高(やすたか)は兵2000余騎を率いてこの寺に陣取り、高尾(たこお)城で自害した富樫政親(まさちか)が葬られたとされています。1580年(天(てん)正(しょう)8)織田信長軍による一向一揆平定のとき、兵火によって炎上しました。

(本19)


大乗寺跡範囲図(加賀大乗寺史から転載)


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