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C02●稲荷(いなり)
稲荷1〜4丁目
ののいちガイドマップ
 稲荷は正保(しょうほう)郷帳(ごうちょう)には村名が見えず、1661〜1673年(寛(かん)文(ぶん)年間)までに村立てされたと考えられます。1875年(明治8)に当時の三日市村に編入され、1956年(昭和31)郷村が分割して野々市町に編入の際、三日市から分離しました。(本8,38)

 稲荷2丁目の稲荷(いなり)神社(じんじゃ)には、次のような言い伝えがあります。堀河(ほりかわ)天皇の寛治(かんじ)年間(1086〜94)7月に京の鳥羽に離宮(別邸)を造営するにあたり、富樫家近(家通)は家来や人夫を連れて京にのぼり、工事に従事している時、壊れた石垣の下で苦しんでいた3匹の子狐を助け出し放してやりました。その夜、夢に稲荷大明神が現れ、「白狐を助けてくれた恩に感謝する。末長く富樫家が富貴(ふうき)になるであろう。」とのお告げがありました。

 それからというもの加賀の国は作物が多くとれ病気も少なくなりました。そこで家近は長治(ちょうじ)元年(1104)この地に立派な社を建立して京都の稲荷大明神を分神し、狐の大好物の小豆飯を供えて丁寧に祀りました。この説話が地名の由来にもなっています。 またこれより、村ではめでたい時には赤飯をお供えするという風習が加賀の国一円に広まったといわれています。(本25)


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