「こよひしも 矢はきの里にいてそみる 夏も末なる弓張の月」
これは、1486年(文明(ぶんめい)18)、京の聖護院(しょうごいん)門跡(もんぜき)道興(どうこう)が白山登拝(とうはい)の後で、「つるぎ」の次に立ち寄った場所で詠(よ)んだ歌とされ、この「矢はき」が現在の矢作(やはぎ)にあたると推定されています。戦国期には「矢矯」とも書いており、江戸期にいたって「矢作」となりました。
「矢作」という地名の由来には、その名の通り、中世に矢を作る人が住んでいたという説や、近世には破魔矢(はまや)の生産地であったためとする説がありますが、詳しいことはわかっていません。
村社は藤岡(ふじおか)諏訪(すわ)神社(じんじゃ)です。藤岡伴道(ばんどう)(伴当)が諏訪神社を崇敬(すうけい)したことにより命名したと言われています。以来、諏訪社(すわしゃ)と呼んでいましたが、1890(明治13)に現社号に変更し、1901年(明治34)集落南東にあった八幡社(はちまんしゃ)を合祀(ごうし)して現在にいたっています。
1488年(長享(ちょうきょう)2)に加賀一向一揆が高尾城(たこうじょう)に富樫(とがし)政親(まさちか)を包囲した際の軍事(ぐんじ)拠点(きょてん)に「諏訪口」「諏訪之森」がありますが、これが藤岡諏訪神社を指すのではないかと推定されています。1955年(昭和30)の合併で富奥村から野々市町になりました。(本8・38・35)
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