『和名(わみょう)抄(しょう)』(注1)に見られる古代「拝(はい)師郷(しごう)」を継承(けいしょう)し、中世に誕生した「林郷」に含まれていました。南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)にはさらに「上(かん)林郷(ばやしごう)」、「中林郷(なかばやしごう)」、「下林郷(しもばやしごう)」の3郷に分立され、現在までその地名がそれぞれに残されています。
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて林郷を領有した有力(ゆうりょく)在地(ざいち)領主(りょうしゅ)の林氏は、当時加賀の武士団の棟梁(とうりょう)として有名で、木曾(きそ)義仲(よしなか)と供に平氏(へいし)と戦い、数々の武勲(ぶくん)を立てましたが、1221年(承久(じょうきゅう)3)に起こった承久(じょうきゅう)の乱(らん)では敗北した後(ご)鳥羽(とば)上皇(じょうこう)側に味方したために、その後は歴史の表舞台から消えていくこととなりました。石川郡誌(いしかわぐんし)には、かつて林(はやし)則光(のりみつ)の館跡があったと伝えられていますが、今ではその様子をうかがうことはできません。
近代に入ると、1889年(明治22)には通称丸の内地区に富(とみ)奥村(おくむら)役場(やくば)が建てられ、この地区に公共施設や住宅が集中するようになり現在の町の基礎が築かれました。
村の南側には村社「中林春日神社」があります。神主(かんぬし)岡本(おかもと)越前守(えちぜんのかみ)の文書によると、1150年(久安(きゅうあん)6)の頃にはすでに鎮座(ちんざ)されていたと思われますが、詳しくは分かっていません。
また、現在の拝殿(はいでん)は1907年(明治40)に鶴来町の金剣宮(きんけんぐう)蛭子社(えびすしゃ)拝殿(はいでん)を移築したものと言われています(金剣宮社史)。調査の結果、この拝殿の建築様式は桃山(ももやま)時代(じだい)の特徴をよく表していることがわかりました。もとは春日社と呼ばれていましたが、 1875年(明治8)8月現社号に改称されました。(本5・7・20・24・35)
中林春日神社
注1:正式には『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』といい、10世紀前半に編集された一種の百科事典のような書物です。
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