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E04_17●末松(すえまつ)遺跡群(いせきぐん)

4●末松A遺跡  5●末松B遺跡  6●古元堂館跡(こげんどうやかたあと)
7●末松C遺跡  9●末松古墳  10●法(ほう)福寺跡(ふくじあと)
12●末松福(    ふく)正寺(しょうじ)遺跡 13●末松ダイカン遺跡
15●大館館(だいかんやかた)跡(あと)  16●末松砦(とりで)跡  17●末松(すえまつ)信濃館跡(しなのやかたあと)


発掘調査の様子(末松A遺跡)

 古代の大寺院跡である史跡(しせき)末松(すえまつ)廃寺跡(はいじあと)に代表される末松地区は、野々市町の中でも御経塚(おきょうづか)地区と並んで数多くの遺跡が発見されている所です。

 野々市町の全域は県下最大の河川である手取川(てどりかわ)によって形成された手取川(てどりがわ)扇状地(せんじょうち)の上に存在しますが、鶴来(つるぎ)町に近い末松地区はその中でも比較的標高(ひょうこう)の高い地点(海抜(かいばつ)35〜40m)にあたります。

 実は、このことが御経塚地区に広がる遺跡群の様相との決定的な違いを生み出しているのです。縄文(じょうもん)時代や弥生(やよい)時代の遺跡が多く見られる御経塚地区に対して、末松地区は乾燥していて地面の下に石が多いという扇状地の特徴から、鉄の道具が一般に普及する古墳(こふん)時代の終わり頃まではなかなか田んぼを作ることができませんでした。

 そのため、この地区にはそれより古い時代に長く続く遺跡はほとんど見つかっていません。しかし、大規模な灌漑(かんがい)工事(こうじ)をおこない、いったん田んぼを作ってしまえば低湿地(ていしっち)よりもはるかに多くのお米を収穫することができたようです。

 事実、この地区ではそれ以降奈良・平安時代にかけてのとても大きな集落跡が集中して発見されています。ここで紹介する末松A・B・C遺跡や末松福正寺遺跡、末松ダイカン遺跡はいずれもこの時代を中心として営まれた集落跡であり、多少の時間差をもって小さな移動があったものと思われます。

 神社に名残(なごり)を見せる末松古墳も、このような新興(しんこう)開発(かいはつ)領主層(りょうしゅそう)のために作られたものでしょう。この他にも、周辺には今はもうなくなってしまった古墳を表すと考えられる「塚(つか)」の付く昔の地名が多く残っています。

 このことから、当時末松地区は周辺での中心的な地域であったことがわかります。また、この地区では奈良・平安時代の遺跡がいったんなくなった跡も、少し時代が新しくなった中世段階には再び集落が形成されるようになります。先に挙(あ)げたそれぞれの遺跡では、奈良・平安時代ほど大規模ではありませんが14〜15世紀頃の土器や竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)跡(あと)・掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)跡(あと)などが発見されています。

 この他、この地区には中世以降にあったと思われる寺院跡や館跡の伝承がいくつか残っています。この内、法福寺跡は轟村(とどろきむら)(今の末松2丁目)の西にあり、江戸時代の終わり頃までは周囲に巡(めぐ)らされた土居(どい)の痕跡(こんせき)があったそうです。大館館跡は史跡末松廃寺跡の東にあったと言われており、居住した大館氏は室町時代末頃の人物で京の都とも深くつながりのあった有力者であったと伝えられています。

 やはり江戸時代の終わり頃には末松村の東北隅に米倉の跡が残っていたそうです。また、末松砦跡は村の後ろ側にあったと伝えられており、江戸時代の終わり頃には土居や堀の跡が残っていたそうで、今でも地元には「殿の池」という地名が残されています。

 砦の主の名前はわかりませんが、昔大名が暮らしていたと伝えられています。その他、古元堂館跡や末松信濃館跡については詳しいことはわかっていません。この内、末松信濃館跡については1996年(平成8)に石川県立埋蔵文化財センターにより一部発掘調査が実施されましたが、館跡に関係するような資料は確認されなかったようです。
(本20・24・30・31・35・45・46)


遺跡が密集する現在の末松地区の様子
2001年(平成13)撮影


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