幕末(ばくまつ)に編纂(へんさん)された『石川(いしかわ)訪古遊記(ほうこゆうき)』によると、「末松」の名称が初めて記録の上で確認されるのは、1488年(長享(ちょうきょう)2)のこととされており、もとは石川郡中奥(なごき)保(ほ)の中の一村でした。
また、戦前の農村復興の際には、色・甘味とも優れた「富奥スイカ」の産地として有名でした。
村の南側にある大兄(おおえ)八幡(はちまん)神社(じんじゃ)は、大兄(おおえ)明神(みょうじん)と号し 加賀(かが)国造(くにのみやつこ)大兄(おおえの)彦(ひこの)命(みこと)を祀(まつ)ったといわれています。
『富奥郷土史』によると、大兄彦命が加賀の国造(くにのみやつこ)として赴任(ふにん)したのは第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の頃(西暦456年)とされており、末松の地がその本拠地にあたるとすれば周辺でも最も古くから開かれたところとなります。
しかし、近年盛んにおこなわれている発掘調査の結果ではそこまで古い遺跡は確認されていないため、詳しい関係はわかっていません。この神社はもと末松社と称していましたが、1875年(明治8)に末松神社と改め、轟(とどろき)蛭子(えびす)神社(じんじゃ)を1907年(明治40)に合祀(ごうし)した轟(とどろき)八幡(はちまん)神社(じんじゃ)を、1909年(明治42)末松神社へ合祀して現社号に改称しています。(本7・8・35・38)
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