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E14●史跡(しせき) 末松(すえまつ)廃寺跡(はいじあと)
末松2丁目地内
ののいちガイドマップ

末松廃寺 復元模型(野々市町文化会館)


銀製和銅開珎(複製)(野々市町文化会館)

 史跡末松廃寺跡は、 白鳳(はくほう)時代(じだい)末の7世紀後半に建立(こんりゅう)されたと考えられている古代の寺院跡(じいんあと)です。

 末松では江戸時代から、「カラト石」と呼ばれる巨石が水田にあり、周囲から瓦類(かわらるい)がたくさん出土することが知られていました。1937年(昭和12)には地元の高村(たかむら)誠考(せいこう)氏の発案で発掘調査が行なわれ、この場所が古代の寺院跡であったことが初めて確認されました。この「カラト石」は巨大な塔(とう)の心礎(しんそ)だったのです。また、その結果から1939年(昭和14)には国の史跡(しせき)指定(してい)を受けて、将来にわたって保存管理されることとなりました。

 戦後となってからも、 末松廃寺跡は地域にとって貴重な歴史を示すものとして熱い視線が注がれ続けました。このような中、1961年(昭和36)には高村氏による銀製和(ぎんせいわ)同開珎(どうかいちん)の発見があり、再び大きな話題を提供するとともに1963年(昭和38)には石川(いしかわ)考古学(こうこがく)研究会(けんきゅうかい)による史跡周辺の測量調査がおこなわれ、 史跡の公園化を前提とした内容確認のための発掘調査が望まれるようになりました。

 遺跡の大規模な発掘調査が行なわれたのは1966年と1967年(昭和42)です。 調査では、塔と金堂(こんどう)が東西に並んでおり、法起寺式(ほっきじしき)の伽(が)藍(らん)配置(はいち)をとっていることが確認されました。塔跡には、粘土を水平に何層も突き固めた基壇(きだん)があり、基壇中央に心礎を埋めたと見られる大きな穴がありました。

 その周りには柱を立てたものと思われる礎石(そせき)も一部遺(のこ)されていました。その状況から塔の基礎部分は一辺が10.8mという大きな規模であったことが確認され、それにより五重(ごじゅう)ないしは七重(ななじゅう)の塔(とう)が立っていた可能性が指摘されています。

 金堂は塔跡から11m離れた場所にありました。 東西21m、 南北16.5mの基壇が遺されており、その周囲からは屋根に葺(ふ)いたと思われる大量の瓦(かわら)が出土しています。 瓦には丸瓦(まるがわら)、 平瓦(ひらがわら)、 軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらがわら)などがあり、軒丸瓦の文様(もんよう)などの分析から辰(たつ)口(のくち)町の湯屋(ゆのや)窯跡(ようせき)で焼かれたものであることがわかっています。

 この巨大な寺院を建立した人物についての詳しい記録は残されていませんが、当時周辺を支配していた「道(みち)の君(きみ)」という豪(ごう)族(ぞく)だという説が有力です。道の君は当時(6世紀後半)外国(高句(こうく)麗(り))からの使者に「自分が日本国の天皇だ」と偽(いつわ)って私(し)貿易(ぼうえき)をするほどの豪族で、きっとその言葉を信用させるほどの財力と権力を握っていたのでしょう。当時のお寺は今のように誰でもがお参りにいけるようなところではなく、建立した豪族が一族の繁栄(はんえい)を願い、その権力を誇示(こじ)するための側面が強く、「私寺的(しじてき)性格(せいかく)」の強いものでした。

 現在、末松廃寺跡は史跡公園として整備開放され、人々の憩(いこ)いの場として親しまれています。(本4・9・26・27・35・48)


整備された金堂跡・塔跡全景


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