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page=10 :小林寺があるとのこと。ここも案内してもらった。市内を一望できる山というより高台といった感じのところにある大きなお寺である。坪内家の墓所には「市指定史跡 旗本坪内家の墓所」と記された標柱が建っており、十数本の墓石が立ち並んでおり、いかに由緒ある家柄であったかを伺い知ることができた。またこの寺には坪内家の古文書もあり、見せて頂いた。(この古文書は市教育委員会が整理し印刷されており、資料として頂いてきた。富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒(一)~(五)五冊、前渡坪内氏御用部屋記録一、二 二冊、戊辰戦争軍中日記 一冊、慶応二・三年兵賦出府日記 一冊) 坪内氏と松倉城  翌日隣町である川島町に坪内氏が城主であった松倉城跡があるとのことで訪ねた。木曽川の堤防わきに看板が立っており、城跡と思われる所はなに一つ残っていない。 むすび  岐阜県の富樫姓は二十九と全国的に見て少ない方だが、このような形で富樫一族が分播したのは特異なことだと思われる。今回の坪内家は分家筋とのことだったが、本家筋はどうなっているのか、そして加賀からなぜ美濃に行ったのか、いつ頃なのか、疑問と不明なことが多い。幸い各務原市の加藤さん等はこれからも交流を続け交流の輪を広げたいとのことだった。今後、さらにお力添えを得ながら調査を続けていきたいと思っている。    (文・佐久間由孝)
page=10 :史跡 松倉城跡  この地(松倉上ノ島)は、坪内氏の古城跡である。  戦国の頃、加賀国(現石川県)の富樫の庶流坪内藤左衛門尉頼定が尾張国に来て、犬山城主織田信康(信長の叔父)に仕えた後、天文十六年(一五四七)に、初代松倉城主となり松倉を領地とした。  四代目城主坪内(喜太郎)玄蕃頭利定は、織田信長に従いたびたびの合戦に臨み、武勲を輝かせた。しかし信長没後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と不和となり本領を離れ、一時、金山(現益田郡金山町)に退くことになる。  たまたま天正十八年(一五九〇)徳川家康に迎えられることになり、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦には井伊直政の軍に属し抜群の戦功をたてた。その功により家康から直々に感状を賜り、翌年、羽栗・各務両部において六千五百三十三石を賜ることになった。  その後、坪内氏は旗本を仰せつかり、坪内宗家は江戸に出府し、幕府の組織の中で重要な地位を占めた。 平成七年二月再建  川島町  川島町文化財保護審議会 松倉城跡