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page=13 :れた書状等の古文書類や昭和九年頃の新聞、七曜紋を染めぬいた袱紗等多くの資料を実見させて頂いた。貴重な資料を出来ましたらコピーさせて貰いたいとお願いし、承諾を得て十二月五日に再度富樫家を訪問し、一日がかりでコピーさせて頂いた次第である。 富樫家に伝わる資料  見せて頂いた資料は、昭和九年十月十七日から二十一日まで金沢で開かれた前記の展覧会に出展された富樫氏遠孫成田家由緒書をはじめ、富樫氏遠孫成田家系譜、成田家先祖一類付、富樫家譜北賀太平記及び昔日北華等多くの関係古文書類であった。加えて昭和九年三月五日以降数回にわたり、富樫家に関する記事が掲載されている大阪朝日新聞京都版や金沢新報、北国新開が保存されていた。以下これらの新聞記事を引用しながら富樫家の流れを辿って行きたいと思う。    富樫氏直系のルーツ  この京都の富樫さんは、加賀一向一揆が高尾城を攻略し富樫氏第二十四世の政親が討死に際し、乳呑み児であった嫡子政直を乳母が懐にかくし、富樫親春という過信が付き添って越前の知り合いに身を寄せたという政親直系の後裔としている。
page=13 : 成長した第二十五世政直は、世をしのぶため名を成田外記と改めたといい、その後第三十二世から井上姓を名乗っている。その間、朝倉氏や越前の松平家、笛の名手として加賀の前田家、山崎家などに召し抱えられ明治に至っている。  明治四年、政親から十三世目の孫井上伝三は、金沢藩庁へ復姓を願い出て、許されて第三十七世富樫弼直と改名し富樫家を再興したのである。  明治八年、第三十八世●平は前田利嗣侯の家従となり東京に勤めていたが、同十三年、父弼直の病死で金沢の家や家財を整理し、東京に移住しょうとするが、京都に移住する姉の見送りで当地に来たとき、難に会い仕方なく前田家を辞し、以来洸とに在住し今日にいたっているとのことである。 むすび  京都の富樫家の調査内容については、加賀の一向一揆により滅亡し、断絶したはずの富樫政親の後裔が現存され、系図や家譜もはっきりしていることは、富樫家調査と資料収集の面からも重要な成果だったと思う。  また、この度の調査で室町時代に富樫氏が出仕していた室町幕府跡や出入りしていた三宝院、京都で構えた邸宅跡とおぼしき所を見てまわった。特筆すべきものは無かったが、室町時代歴代富樫氏の活躍の跡をしのぶ事が出来た。 復姓願い(明治4年) 七曜紋のふくさ 調査状況