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page=15 :富樫ゆかりの地 奥州平泉を訪ねて -盛岡の冨樫・後藤さんに聞く- 平成15年8月22~24日調査 はじめに  中世 加賀の守護大名富樫氏と云ってもぴんとこないが、謡曲「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」に出てくる富樫といえば、わかりが早い。この物語に出てくる富樫こそ、平安の中期から戦国期初頭にかけて、およそ六〇〇年間、加賀の国で活躍した豪族富樫氏なのである。  義経主従の都落ちと富樫とのことがらについては、『野々市町小史』に次ぎのように記されている。文治二年(二八六)三月頼朝に追われた義経一行が加賀国安宅(現在の小松市)の関所を通過した際、義経主従と知りつつも、弁慶の勧進帳に事寄せて、山伏に偽装した義経一行を通過させた関守りこそ、加賀の守護に任じられ野々市(石川県野々市町・加賀国府の所在地)に居館していた富樫泰家である。これは仁あり義あり勇ある守護として富樫氏を世に伝えたのである。  虎口を脱れた一行はその後、義経は海岸添いに大野(金沢市)に向かい、弁慶は野々市の富樫館に立ち寄り勧進を請たのである。その時弁慶が富樫館内から大きな石を鞠のように扱い、力自慢に外へ投げて見せた。今その石は布市神社(野々市町)の境内に「弁慶の力石」と云われて保存されている。義経一行のその後の足取りは越中(富山県)から奥州(平泉)へと落ち行き、藤原秀衡のもとに辿りついたのである。  このことが鎌倉の頼朝の耳に達し、泰家は守護職を解かれ官職を剥がれたので、野々市に居ることが出来ず、嫡男家春に家を譲り、剃髪して道名を仏誓と号し名を重純(しげすみ)と改め、義経の居る奥州路へと落ち行き、義経に再会したのである。  義経が藤原秀衡に請うて、食田を与えられた泰家は暫らくここに留まり、一子庄九郎を残して野々市に帰り後年没した。庄九郎は後に前野と姓を改め、後胤相嗣ぎ二七世長康に至り尾張の羽柴秀吉に招かれ、名を喜太郎勝左衛門と改め、賎ガ岳の合戦に参加して戦功をたてた。  以後尾張に住し、子孫は豊臣、徳川に仕え前野家を相続した。所謂尾張の富樫氏と称するものである。泰家には家春、庄九郎の他に何人かの子あり、その中の泰景は出羽の富樫氏の祖となるとある。 中尊寺鎮守の白山神社(平泉町)