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page=16 :中尊寺本堂
義経堂のある高館の遠景
また『尾張国諸家系図』には、富樫家直(泰家の誤りか)の項に、「(前略)依テ右大将家ノ堪気ヲ蒙り加賀国ヲ没落ス。此義奥州へ聞、義経朝臣富樫介力仁意ヲ感シ、奥州へ招、浪々ヲ救イ、前野ノ庄ト云所ニ三千丁ヲ賜フ。依テ前野ヲ称号トシ、前野庄九郎ト改メ義経ニ忠勤ヲツクス。後高館ニヲイテ義経滅亡ノ時、又浪々ス」とある。また山形県鶴岡市には、富樫成澄(しげすみ)の墓(会報「とがし卿」第46号に掲載)が残されているなど、富樫と平泉とが関係づけられている。
平泉の藤原氏と富樫氏
今回は前記の記録や伝承などを手がかりに重純、庄九郎、泰景らの足跡を追っての奥州平泉(岩手県平泉町)の調査だったが、平泉では富樫氏や加賀に関係のある事跡や伝承は、残念ながら得るものは見つからなかった。ただ唯一加賀・白山(石川県自峰村)との関係のあるものとして、中尊寺には鎮守社・白山神社があり、関係の方から話を聞き、資料等を貰ってきた。
その社伝によると当社は仁明天皇の御代の嘉祥二年(八四九)慈覚大師が一関磐井川の上流(現在の一関市本寺)に加賀の一の宮(白山本宮・石川県鶴来町の白山比咩神社)より分霊されてあったものを、この関山に遷座し勧請されたと云われて来ている。勧請と同時に白山権現と号せられ、十一両観音を本尊とした。云々とある。
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また藤原氏は白山宮に対し仏像や梵鐘等を寄進しているとのことだったので、帰町後、早速関係文献をひもといて見ると『霊応山平泉寺(へいせんじ)大縁起』という史料があり、それには白山権現を疎く信敬した藤原秀衡が、寿永二年(一一八三)白山天嶺の大御前に十一面観音と六道地蔵尊の像を奉祀し、白山中宮平泉寺(勝山市)には数品の宝物を奉納したうえ、赤銅に黄金を交えた梵鐘を鋳造して寄進したと伝えられている。
さらに、秀衡は平泉寺の境内に湧出する平清水(ひらしみず)に因んで自らの城郭の地を平泉(ひらいずみ)と改名したうえ、愛娘の一人を平泉寺へ送り、金台坊という寺坊を開いた。また平泉の中尊寺には、白山権現を勧請して伊弊再尊を祀り、白山主峰の本地仏である十一面観音像を安置し、境内の社堂や神社のことごとくを平泉寺のそれと同一にした。ということがこの縁起には記されているとのことであった。こうした結びつきが、どうしてなされたのかは疑問でもある。
しかし、このことは今後の新しい課題として富樫氏と平泉の関係と合わせて、改めて取り組みの必要性を感じたものである。
富樫、後藤さんを訪ねて
平泉への調査を機会に以前、野々市に来られたことのある盛岡市の富樫廉さんと後藤百合子さんを盛岡に訪ねることとした。富樫さんのはからいで、もりおか開運神社で話し合いの席を設けてもらい、いろいろと貴重なお話をお聞きし、新たな角度からの調査の必要を感じるとともに大きな収穫であったことを、まず記しておきたい。
富樫さんは、個人的にも仕事の関係でも石川県に来られており、富樫氏にゆかりのある所を訪ねられ、詳しく知っておられるのには驚いた次第である。言うまでもなく富樫さんの先祖は加賀の富樫氏であるが、その文献や資料は無いとのこと。しかし、大きな関心を持ち、これまでにもいろいろと調べておられるそうだ。
その一端として秋田県に住んでおられる富樫氏のルーツについて、お話をお聞きした。もちろんはっきりしたものはつかめ
高館から衣川を望む