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page=17 :ないが、推測を交えながらと云うことである。  秋田県内に在住されている富樫姓は約八〇〇世帯だが、その半数が大館市と大曲市に在住されている。加賀から秋田(出羽)に入った富樫氏は、貞和年間(一三四五~五〇)加賀国において一族内の勢力争いに破れ、誠白が主従十七騎で現在の仙北郡神岡町に入ったとある(後に大曲市に移住)。これが大曲の富樫一族のルーツとなっており、資料文献もあり、通説となっているのである。  しかし、ここであえて疑問視して見てみたい。はたして本国加賀で破れて逃れて来たはずの誠白が移住して間もない時期に居館を築き、加賀から氏神白山権現を勧請し、且つ菩提寺として宝蔵寺をこの地に移すことが出来るだろうか。  このこと一つとっても考えられることは、飛躍的な推理かも知れないが、一族内の極秘の進駐ではなかったかということである。その後の富樫氏は宝蔵寺(神岡町)の建立や居城(孔雀城=大曲市)を築き、出羽の雄(角館城主=現在の秋田県角館町)・戸沢公の有力家臣として活躍、繁栄して今日に至っている様子を見ても、釈然としないものがあるとのことだった。  一方、義経の後を迫って平泉に入った富樫泰家(重純)や子の庄九郎、泰景が平泉のどこに居たのか、奥州の何処を浪々したのか、平泉の付近では全くわかっていない。  もしかすると、古くから板沢(大館市)近辺と平泉や一関あたりは人々の交流があったと聞いており、板沢の近くの仁井田(大館市)には、平泉氏や一ノ関氏、石戸谷氏(岩手県石鳥谷町から移住)等、平泉に関係のある名前の方々が住んで居られることも合わせて、泰家(重純)等が寄ったのは板沢周辺ではないかと考えることも出来るとのことであった。  このように板沢を中心とする富樫一族は別の流れではないかとの見方もでき、大曲の富樫一族だけが秋田県内に広まったのではないと云うことである。以上の見方も当時の世相や人の動きの中から推理出来ると云うことで、今後も続けて調べて行きたいとのことであった。  後藤百合子さんの先祖は、天正二年(一五七四)越前の清江城(福井県金津町)が一向一揆軍に攻められ落城し、岡城に寄食していた富樫泰俊父子が亡くなった際、三男家俊が本国加賀に逃れて押野(野々市町)に土着し、後藤を名乗り代々十村役(大庄屋)を勤めた家柄である。  後藤さんの家はその分家にあたり、始め福井の三国へ出られたが江戸の中期頃、現在の岩手県石鳥谷町に来られたという(後に盛岡市に移住)。その後の後藤家については、資料として石鳥谷町の広報「いしどりや」を頂いたので、その内容を要約しながら紹介したい。
page=17 :  ① 「ふるさと再発見」欄に-三國屋-のタイトルで、藩制時代に好地の中町(現石鳥谷町内)に三國屋(後藤家)という商家あった。祖先は、越前国(福井県)三国湊の出身と云われ、出身地の地名を取って屋号としたと考えられている。  祖先の奥州下向は寛延年間(一七四八~五〇)頃といわれ、商売を手広く行い、多くの土地を所有していた。明治九年頃、直助という人は戸長を務め、同二十二年の町村制施行の際には、初代の好地相村長になったという。また直助の三男の清郎という人は岩手日報社の社長になったこと等が記されている。  ② 発行年月日は違うが、同じ「ふるさと再発見」欄に-岩手日報の礎石を築いた 後藤清郎-のタイトルで後藤清郎の生い立ち、学歴、職歴などが詳しく記載されていた。なお、案内してもらった盛岡市先人記念館にも後藤清郎の写真や業績資料が展示されており、如何に偉大な人柄であったかが伺い知ることができた。  この後藤さんの本家は明治期に大阪に出られたとのこと。なお、後藤さんの先祖が何時の頃に押野の後藤家から分家されたのか不明とのことだが、北前船との関係があるように思われる。福井の三國町も含めて資料の収集にあたってみたいと思っている。 むすび  以上、今回の調査は現状を把提するに留まった感があるが、富樫と奥州平泉との関係は単なる伝説なのか、加賀の富樫はなぜ東北地方に多く伝播しているのか。改めて疑間と関心の念をかきたててくれたのである。  最後になったが盛岡に温かく受け入れて頂き、貴重なお話しをお聞かせ下さった富樫さん、後藤さんと、話合いの席を提供していただき盛岡のことを詳しくお話し願ったもりおか開運神社宮司の荒川光さん。そして神社の関係の皆さんに大変お世話になったことを感謝し、心からお礼申し上げて今回の報告を終えたい。 富樫史料研究会 佐久間由孝・宮崎昭男・久保昇・西本正明・東平公夫 もりおか開運神社(盛岡市)