タイトル:ブラウザ判断

タイトルをクリックすると最初のページから表示されます。
ページ番号をクリックすると該当のページが表示されます。

page=19 :立石寺と天童帝の富樫さんを訪ねて 調査員 宮崎昭男・西本正明・東平公夫 平成17年3月25~26日  富樫卿奉賛会の富樫資史料を調査する組織である「富樫史料研究会」は、去る三月二十五日より二十六日までの二日間にかけて山形県山形市にある「宝珠山立石寺」 へ調査に行った。  この調査に至ったきっかけは、以前当奉賛会が実施した富樫姓調査の中で山形県天童市に住まいする「富樫一美」氏よりの連絡から、自らの富樫姓は立石寺に起因するとの事からこの寺への調査を実施したものである。  三月の終りで、もうすでに春だというにもかかわらず、山形自動道の蔵王付近では吹雪で視界が悪く大変危険な状況であった。また、立石寺に着いても五センチ程の積雪があり驚いた。  立石寺は、東北地方随一の天台宗の霊場であり、通称「山寺」の名称で広く知られている。松尾芭蕉がこの地を訪れた際に「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の旬を読んだことでも有名である。  文献によると、この立石寺は貞観二年(八六〇)に「慈覚大師 円仁」(七九四~八六四)が比叡山延暦寺の別宮として開基したものである。開祖が「安慧」となっているのは、立石寺を慈覚大師ゆかりの霊地として認めながら、円仁の門弟で円仁に次いで天台座主となった安慧の下向を確実なものとしているからであろうとされている。  慈覚大師は貞観六年(八六四)入滅したが、生前遺言にて「比叡山には開祖最澄の廟のみにとどめるように」厳命し、自らの墓をこの立石寺に築くように固く戒めていたと、山形市史に記されている。  我々は、立石寺を訪問して住職にお会いし「富樫」について伺った。寺の資料では、慈覚大師がこの地に来たとき俗人の供の者が六人いて、その中の一人が富樫姓を名乗 立石寺六在家屋敷神の詞を祀る八幡神社(天童市上荻野戸)