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page=2 :富山県の富樫一族を訪ねて 調査員  中島康雄  佐久間由孝  嶋田良三 はじめに  富山県の富樫姓の世帯数は、山形県、新潟県、秋田県をはじめ大都市圏に比べると少ないが、福井県十三世帯に対して、富樫姓が九四、藤樫と書いて「とがし」と称する家三九をあわせて一三三世帯となっている。そしてその七五%が上市町に集中していることから非常な興味を持ち、今までに少しづつ上市町などの調査を行ってきたが、昨年度は四回にわたる現地調査を行った。既存の文献資料調査の結果を併せて、不十分なところもあるが報告する。 富山県指定 天然記念物 一 名称 北島神社の大桜 二 指定年月日 昭和四十年一月一日 三 説明 コシヒガンザクラの一品種で、エドヒガンまたは、タチビガンザクラという。樹皮は枝垂柳に似て縦溝がある。花は白くやや小形である。この木は目通りの高さで三・九六米の幹囲で東北に傾き、下部に空洞があるが樹勢は旺盛である。北島は昔、上市川の川原であったが天正年間に加賀から富樫勘兵衛という武士が移住して開拓し、神社創設の際、この桜を植えたものという。 一 上市町 冨樫勘兵衛と桜の木  富山県の中でも最も富樫姓(藤樫姓)の多い上市町の中でも、北島という集落は特に多く、ここの北嶋神社には富樫ゆかりの桜の木があるとのことで行ってみた。境内に入って行くと左手の方に、立看板が建てられ、その傍らには、根元の大半が朽ち枯れ、古いひこばえと見られる、 周囲1メートルくらいの斜めに立っている桜の木がある。つっかい棒で支えられている状態だが、その途中から細い新しい枝が出ており、やっと生きているようだ。だが朽ち枯れた根元の様子からは四百年も生きてきた巨木の片鱗を伺い知ることができた。その近くにこの大桜を接木して育て、昭和四十六年に植えられた幹周八十センチ程の「タチヒガンザクラ」があり、人びとのこの桜に対する思いの程を痛感させられた。  この冨樫勘兵衛とはどんな人だったか、なぜ加賀からこの地に来たのかを知るため、富樫姓の人々の多くが門徒となっている、上市町の松尾山常福寺を訪ねた。常福寺で松尾彰信住職と、冨樫勘兵衛の子孫といわれている冨樫哲利さんの話を聞いた。  それによると、同家の家号は「カンベドン」であり、当主は三十八代目とのことであった。しかし明治の頃北島に大火があり、加賀からこの地に移った頃のものと伝えられた。本尊阿弥陀如来木像や、古文書などすべてが焼失したという。その為に冨樫勘兵衛に関するものは何もないといわれた。しかし冨樫勘兵衛がこの地に移住してきたのは天正年間(一五七三~一五九一)の初め頃ともいわれ、加賀での元亀元年(一五七〇)冨樫晴貞が伝灯寺で自刃した後と考えられるが、その動機や経緯についてはわからない。
page=2 : また常福寺と富樫との関係は当寺の境内にある「常福寺由来之記」碑に「正嘉元年(一二五七)親鸞聖人二十四輩の一人真仏坊の開基に依る 真仏坊は下野国(茨城県)真壁の城主大内国春の嫡男なり 出家して聖人の弟子となり 北国布教の師命を受けて加賀国(石川県)富樫家に依り 同国高尾に専燈寺を建立す 第七世光義の時 加賀一揆の渦中に有りて 蓮如上人に皈依し 法名を浄賢と改め本願寺派に転ず 富樫氏これを見て大いに憤りを成し 誅せんとするに及びて 浄賢法師この難を避け当地松尾野に到る井見荘土肥美作守に拠りて一隅を照らさんが為 一宇建立を成す と伝える」とある。松尾住職によれば、浄賢法師が加賀からこの地に来たのは、冨樫政親と一向宗徒との関係から文明六、七年(一四七四、五)頃と考えられ、当時の加賀における世相の一端が伺われると言う。また富山県の富樫さんの大半が上市町の出身であると思われるし、その基は北島だろうとのこと。藤樫の「とがし」さんも湯上野という集落に多いが、北島の富樫さんの分家筋にあたるらしく、湯上野の神社に大きな藤の木があったからとか、藤原の末裔だからとのことで藤樫姓になったと伝えられている。  こうして思いがけない常福寺と富樫氏との係りを知りこの常