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page=21 :富樫在家の八坂明神(上萩野戸・八幡神社) 多分大師の郷里である三毳山麓の都賀(栃木県)または比叡山麓の坂本(滋賀県)であろうとされている。  我々は、加賀の富樫とのつながりを考察してみたのだが、加賀の富樫家よりもこの地の富樫在家のほうの年代が先であることより、直接の関係はないものと考えた。  すなわち、立石寺の富樫在家は八六四年であるのに対し、富樫忠頼が一条天皇より加賀の国司に任ぜられるのが九八七年である。  調査前には、東北地方の富樫として、文治三年(一一八七)安宅関において義経や弁慶を通過させた後、自らも奥州へ逃げ延びた富樫泰家との関連を考えていたが、年代が違うことにより結びつかないものと解かった。  翌日、我々は天童市内の富樫一美宅を訪問した。富樫一美氏は病気入院中であり、お会いすることは出来なかったが、奥様と一美氏の叔父である富樫八郎兵衛氏とお会いすることが出来、昨日の調査結果を話した。また、富樫八郎兵衛氏に案内していただき、果樹園の中の富樫在家跡地や八坂明神が祀られている上荻野戸の村社である八幡神社を祝察する事が出来 た。 冨樫茂雄氏を訪問  山形への調査を機会に以前、野々市に来られたことのある福島県磐梯高原でレストランを経営している冨樫茂雄氏を訪ねることにした。
page=21 : 「続・富樫物語 落穂集」等によると、茂雄氏の先祖は富樫政親が一向一揆に滅ぼされてから、「百姓の持ちたる国」となった加賀の、名ばかりの守護職を保っていた富樫晴貞である。  晴貞はご存知のとおり一向宗徒に攻められ野々市の大乗寺から伝灯寺(現在金沢市)へ逃げ込んで一向宗徒と戦ったが、元亀元年(一五七〇)五月十四日、嫡子晴友を越中国に落ちのびさせた後、自害したと伝えられている。冨樫茂雄氏はその晴友の子孫であると思われる。  また、茂雄氏の御父上六郎氏は野々市町と造詣が深く、代表例として金沢工業大学所蔵の晴貞筆の「馬の図」(野々市町指定文化財)は冨樫家からの寄贈である。その他、伝灯寺の晴貞の墓の整備、富樫一族の墓と言われている御廟谷の墓の整備等々、当時六郎氏がたいへん尽力されたものである。そして、北陸鉄道石川線工大前駅構内に建立されている記念碑「富樫館跡」の裏面の碑文は六郎氏の御母上、一恵氏の直筆である。これらのことは、奉賛会の会員である私たちは忘れてはならないことである。  さて、茂雄氏についてであるが、六年ほど前に突如として奉賛会の事務局を訪ねて来られ、晴貞の子孫である六郎氏の子息である旨等々をお話され、ぜひ富樫氏の発祥の地である野々市町を案内してほしいとのことであった。喜んでお引き受けし政親最後の地と言われる高尾城、そして御廟谷のお墓、伝灯寺、富樫館跡等をご案内した。  茂雄氏は、富樫氏の先祖を誇りに万感胸に秘め帰郷された。  最後に、この度の調査において、ご協力いただいた皆様に改めて感謝と御礼を申し上げて筆を置く。