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page=25 :樫家の崇敬が厚かったという。その通路と思われる付近には、馬場先、塀跡などの地名が残っている。  もとは白山社と称していたが、明治十一年(一八七八)現在の社名に改称した。(金沢市馬替三丁目) 10 大額稲荷神社 勧請は安元年中(一一七五~七六)で、野々市に居館していた加賀国守護富樫家は特に本社を崇拝し、元応以降(一三一九~)累代にわたり奉幣祈願、社領寄進、社殿の造営などをしたと伝えられている。  もとは稲荷社と称していたが、明治十三年(一八八〇)現社名に改称した。(金沢市大額一丁目) 11 額東神社 延喜式内の神社である。創立は神護景雲二年(七六八)で、往古は村の東に当たる額山に鎮座していたものとされる。  守護富樫家の崇敬も厚く、社頭造営ならびに社領の寄進もあり、額七ケ村の総社と伝えられている。  後に富樫氏の兵乱に際し社殿が焼失したので、現在の地に遷座したといわれている。(金沢市額谷町) 12 額西神社 延喜式内の神社で神護景雲二年(七六八)の創立と伝えられ、往古は藪田明神と称されていた。このことは「加賀国式内等旧社記」にもみえ、朝延、武将の崇敬も厚く、とくに加賀の守護富樫家の尊敬が深く、社殿を造営したことが「宝永地誌」に記されている。(金沢市額乙丸町)
page=25 :13 白山神社 高安荘野々市の総鎮守として、富樫忠頬が永延年問(九八七・九八八)に創建したものと伝えられる。  神仏習合時代は、白山権現、地主権現、十一面観音を安置するが、富樫氏滅亡の際兵火をこうむり焼失した。  北棟宮の地にあった本殿は、十九世紀前半頃に現在地に遷る。明治十四年(一八八一)白山社を白山神社と改称する。(野々市町本町二丁目) 14 布市神社 富樫家国が康平六年(一〇六三)に館を野々市に築き、邸内に社殿を造営し父祖忠頼から崇拝する三柱の神像の安置を始まりとする。  文治五年 (一一八九)には、富樫泰家が住吉三神を合せ祀り、忠頼の木像も安置し護国神社と称した。  大正三年(一九一四)八幡社と照日八幡神社を合祀し、もとの富樫郷住吉神社を現社名に改称する。境内には弁慶が投げたと伝えられる「弁慶の力石」(別名「雨乞い石」)がある。(野々市町本町二丁目) 15 稲荷神社 富樫家近が鳥羽離宮造営の役夫に際し、稲荷明神の信託によって、長治元年(一一〇四)に稲荷明神を祀ったのが起源である。