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page=26 : 富樫家は累世にわたり稲荷神を崇敬し、五百有余年の隆盛を続けたのである。祭礼に小豆飯を供える習わしが広く伝わり、赤飯の始まりとされている。(野々市町稲荷二丁目) 16 明治八幡神社 養老元年(七一七)、僧泰澄が白山開山のおり神託によって宇佐八幡の分霊をむかえて祀ったと伝えられる。  加賀国守富樫氏が代々崇敬し、帰依も深かったという。また、当社に合祀された菅原神社は寛治元年 (一〇八七)富樫家近が勧請したものと伝えられている。  明治四十年(一九〇七)、中奥郷の緻社として、菅原社及び字田尻の八幡社を合祀し、現社名に改称する。(野々市町堀内二丁目) 17 池上白山神社 創建は不詳であるが、弘安五年(一二八二)に神主岡本氏が当社を兼任したとされる。  境内には「御手水池」跡がある。大乗寺の主僧明峰素哲(富樫氏の出身)の葬儀を行うにあたり、白山権現の影向ありと伝えられ、村人たちは白山権現がお参りに来て手を清められた池として今も大切に守っている。  明治十二年(一八七九)白山社を現社名に改称する。(野々市町位川) 18 大兄八幡神社 創建は延徳年間(一四八九~九二)とされ、往古は大兄明神と号し加賀国造大兄彦命を祀ったといわれる。  富樫氏の老臣である末松信濃が隠居後、泰澄作とされる虚空蔵菩薩の社殿を本社の横に設けたとされている。  もとは末松社と称し、明治八年(一八七五)末松神社と改める。明治四十年(一九〇七)轟蛭子神社を轟八幡神社へ合祀したものを、さらに明治四十二年 (一九〇九)末松神社へ合祀し現社名に改称する。(野々市町末松一丁目)
page=26 :19 中林春日神社 創建は不詳であるが、神主の岡本氏が久安六年(一一五〇)の頃から兼任したとあるので、これ以前の鎮座とみられる。  富樫政親が毎年奉幣したという。また、富樫稙泰が災厄の無きことを祈願し甲胃一領を奉納したとされる。  もとは春日社と称したが、明治八年(一八七五)現社名に改称する。現在の拝殿は、明治四十年(一九〇七)に旧鶴来町の金剣宮蛭子社拝殿を移築したものとされている(金剣宮社史)。(野々市町中林二丁目) 20 林郷八幡神社 創建は長和二年(一〇一三)、往古は拝師明神または拝師八幡社と呼ばれ、拝師郷の総社であったと伝えられる。  元応二年(一三二〇)、富樫泰明が特に崇敬して以後、累代守護神とされ、富樫政親の寄進状が残っている。また、観応年間(一三五〇~五一)上林の地頭、大桑禅門玄猷および土豪林氏(富樫氏と同族)が社殿を造営し、社領・神宝を納めたという。  明治十八年(一八八五)現社名に改称する。拝殿の横にある椎の大木(町