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page=3 :福寺を頼って冨樫勘兵衛がここに来たのではないかと聞いてみたが、定かではなかった。、常福寺を紹介して頂いたのは、上市町の隣町・立山町の町長冨樫清二さんであったことから、立山町役場に冨樫町長を表敬訪問した。お礼を申し上げるとともに、調査状況を説明。励ましの言葉を頂いて町長室をあとにした。 二 氷見市 (1)幕未の剣豪 斎藤弥九郎  氷見の出身者で幕末期の日本三大剣豪と云われた斎藤弥九郎の先祖は加賀から出た人で、富樫斎藤と称していたというが、何か手がかりになるものがないかと、氷見市から永森規一さんという方が来町されたことがある。その時は初めて聞く話しなので、勿論手がかりになるものもなく、改めて教えを乞うこととした。こうしたことから昨年永森さん宅を訪ねたところ、快く貴重な話しや資料を見せてくださり、斎藤弥九郎についていろいろとお教え頂いた。  その折の『越中史料』に斎藤篤信斎履歴書として「翁、諱は善道、字は忠卿、弥九郎と通称し、晩に篤信斎と号す、姓は斎藤氏にして、越中国射水郡仏生寺村の人なり、系は藤原の朝臣利仁より出づ、利仁の子孫北陸に徒り富樫の荘を食む、因って富樫斎藤と称す、元亀天正の間、門徒(一向宗)の故をもって挙族織田氏に抗し、連戦利あらずして遂に民間に遁る、父諱は信道、信助と通称し、七子を生む翁は其の長子なり寛政十年(一七九八)某月某日を以って生まれる、幼にして大志あり」云々とある。  また、『斎藤家の遺物と祖先(富樫氏の滅亡と斎藤家)著者永森規一』の序文の一節に「剣聖・斎藤弥九郎篤信斎は、幕末、激動の時代に身を起し、十五歳のとき家名再興を決意して江戸に上がりました。そして文武両道に励み、大成して道場を開き、千葉周作、桃井春蔵等と並んで三剣豪と謳われた偉人でありました」云々とある。  このことにより斎藤弥九郎が富樫一族であり、このように偉大な人物が加賀の富樫一族から出たことは富樫氏の偉業を奉賛する当会にとっても大きな誇りである。 (2)白藤山光照寺と富樫家  氷見市の富樫姓の光照寺を訪問し、
page=3 :住職から話しを聞いた。内容は『越中宝鑑』にある通りということで、ここに紹介する。  「当寺の開基は慶信と称し、左大臣藤原魚名公六世の孫で鎮守府将軍兼武蔵守利仁十二世の末裔、冨樫左衛門尉加賀国守護泰家の弟、冨樫武通の二男で武行なりとしている。正応元年(一二八八)本願寺如信上人に帰依して出家し、同三年加賀国木越村において一宇を建立して上人より光照寺の号を賜る。後年故あって越中国射水郡田子村に転じて一宇を建立したという。その後第十六世慶岸が安永九年(一七八〇)現在の地に移転し今に至る」と記されている。  しかし加賀国木越村には富樫氏ゆかりの寺がもう一寺あった。現在七尾市にある木越山光徳寺である。『木越山光徳寺七百年史』によれば、この寺の開基宗性は、藤原利仁十二世の末裔、冨樫泰家の孫で冨樫右衛門利信である。利信は文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり宗性と名乗る。そして乾元元年(一三〇二)本願寺第三代覚如上人に帰依し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建したとしている。光照寺が木越に入ったのが正応三年(一二九〇)、光徳寺が木越に入ったのが乾元元年(一三〇二)で十二年しか違っていないことから、富樫家と木越には何らかの関係があったと思われるが、今後の調査課題とし