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page=36 :野々市で開山された大乗寺 本年は、富樫氏ゆかりの大乗寺を開いた徹通義介禅師の七百回御遠忌の年にあたります 大乗寺と徹通義介  徹通義介(一二一九~一三〇九)が大乗寺を開いたのは、正応二年(一二八九)のこととされています。大乗寺は、もともと押野荘に澄海(ちょうかい)阿闍梨を住持とした真言宗の寺院でしたが、富樫家尚(いえひさ)が徹通義介を招いて加賀国最初の禅宗寺院として開山しました。  徹通義介は越前国稲津(現福井市内)の藤原氏出身(斎藤系武士団稲津氏との説が有力)で、一三歳の時、近隣の波著寺(なみつきでら)で出家し、比叡山延暦寺に学んで受戒した後、道元(どうげん)禅師の門下となり、越前の永平寺において重職を勤めました。  建長五年(一二五三)道元禅師が亡くなったあと、永平寺二祖となった孤雲懐奘(こうんえじょう)の法を嗣ぎ、その指示を受けた徹通義介は、永平寺の伽藍整備のため、京都の建仁寺・東福寺、鎌倉の寿福寺・建長寺など、国内の代表的な禅寺の調査を行い、さらに正元元年(一二五九)に宋へ渡り、中国禅寺の伽藍や規式を調査したといわれています。  また帰国後、永平寺の堂合を整備し、規式の充実を進め、文永四年(一二六七)懐奘禅師の跡を受けて、永平寺第三祖となり、当時の人々は「永平寺中興」と称しました。  その後、永平寺を出て加賀の地に移り富樫氏の帰依を受けて大乗寺を開き、方丈と法堂を造営したとされています。永仁六年(一二九九)、門弟の瑩山紹瑾(けいぎんじょうきん)に住持職を譲って隠居し、延慶二年(一三〇九)九月十四日 (陰暦)に九一歳で亡くなりました。
page=36 :大乗寺の旧跡  大乗寺を研究された舘残翁氏の『加賀大乗寺史』によれば、大乗寺の旧跡は本町一丁目から横宮町にかけての範囲が推定されています。  徹通義介は、現在の野々市町太平寺の古宇「ダブ(陀浦)」と称する地で荼毘にふされたと伝えられ、この太平寺には「大乗開山和尚荼毘墓」と刻まれた自然石の荼毘墓が大乗寺のご協力を得て整備保存されています。(表紙写真参照) 大乗寺跡の石碑(本町1丁目 高安軒) 大乗寺の旧跡(『加賀大乗寺史』より)