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page=4 :たい。
三 小矢部市
富樫一族の宮永家
小矢部市には富樫姓の家は一軒もない。ただ古い文献から、小矢部市の中島正文さんという方が、加賀の富樫氏に関する資料を持っておられることを知った。小矢部市教育委員会に問い合わせたが、すでにその中島さんは故人で、資料も分散しているらしいとのことであった。しかし出身地の津沢町で何かわかるかもしれないと、津沢図書館を訪ねてみた。だが関係の資料はなかったが、応対に同席された女性職員から、私の家は宮永だが富樫氏に関する文献があるとの話しで、早速、案内して頂き下川崎の同家を訪ねた。
この宮永家は加賀の富樫一族で、先祖は加賀からここに来たと云う話しを聞きながら古文書をみせてもらって驚いた。宮永累代記、宮永由緒記や富樫・宮永大譜略、富樫譜略、冨樫政親合戦指図記等まさに第一級資料である。この資料のコ
ピーを依頼し、いま当奉賛会の貴重な資料とさせて頂いたことを感謝し、お礼申し上げたい。
また宮永家の近くには公園があって、本家筋にあたる宮永家の人達の石碑が建っているという。現地に行ってみると「下川崎史跡公園」と刻まれて石碑があ
page=4 :る。広さは百坪ほどで大きな板碑、句碑、墓碑や説明看板が立ち並んでいる。小矢部市教育委員会発行の「下川崎史跡公園を訪ねて-宮永家の人びと-」から主なものを記すことにする。
◎ 下川崎の開拓 越中宮永家の開祖である宮永正意は、寛永四年(一六二七)加賀の江沼郡滝ケ原(現在の小松市)で父正英の死に会い、老母を伴って越後高田にいる一族をたよって行こうとした。途中、倶利伽羅峠まできたところで、老母の願いで回り道をして安居寺に参詣した。ここで、院主の学遍に進められ、留まること三年になった。このことが郡奉行の原五郎左衛門の耳に入り、そのすすめで下川崎村に定住して百姓になったという。当時、この地は庄川と小矢部川のたびたびの洪水で荒地が多かった。正意は土地の高低を考え、用水を引き、堤防を造るなどして美田を作った。正意の没後も開拓が続けられ、代を重ねるごとに宮永家は大地主となった。
◎ 宮永以足(富樫弧平)墓碑、句碑 宮永十左衛門正運の孫で文化十年(一八一三)当地で生まれた。学を志し始め江戸に出たが、暫くして大阪の兄の元を訪れ儒学を学んだ。そのうち俳諧に興味を持ち、俳聖松尾芭蕉の流れを汲む俳人となった。以足は一時期加賀の富樫家へ養子に入り富樫弧平と名乗ったようだが加賀のどこの富樫家に入ったのか、また何時実家に帰ったかわからない。だが明治二十三年十月十日卒の墓碑には「富樫孤平君之墓」と刻まれており、別の文献からも晩年には富樫姓を名乗っていたことがわかる。句碑には「草もちや大百姓の雨いわい」とある。
以上宮永家については、当初考えてもいなかったことで、ただ奇遇な出会いとしか言えず、大変な成果が得られたことを大きな喜びとしたい。
なおこの宮永家は、富樫家と同族の林氏の一族であって、今の松任市宮永町に関係しているとみられている。
むすび
富山県の富樫一族は、一概には云えないが元亀・天正の頃に加賀から越中に入ったものと思われてならない。だが誰を頼っていったのか、なぜ越中へ行ったのか不明な点も多い。まだ富山県のどこかに富樫家関係の資料が有るような気がしてならず、更に続けて調査の必要を感じる。 (文責 佐久間由孝)