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page=40 :新発田市へ富樫氏の史料をもとめて 調査日 平成二十年十一月二十七・二十八日  はじめに  今回の調査は、去る平成九年十一月に調査(会報「とがし卿」第五十二号に報告)した新潟県の中で、前回収集出来なかった新発田市の富樫猛さん方に伝わる古文書等の写真撮影が主目的であった。調査は古文書の収撮と富樫さんの先祖が創建し代々所管されていた旧中山村(現=中々山)の中山神社の調査に当たった。以下、富樫家に伝わる多くの古文書の中で「許状写并家筋世代書」、「中山神社由来書」、「越後国蒲原郡中山村村誌」を原文のまま記し、しかも富樫氏に関係する部分のみを次に載せることとした。また各文書には参考までに簡単な解説をつけた。 許状写并家筋世代書 冨樫吉忠 扣 (許状写)  越後国蒲原郡豊田庄中山村神明若宮之祠官冨瀬(樫の誤字か)丹波守吉長恒例之神事参勤之時可着風折烏帽子狩衣者神道裁許之状如件  明暦四戊戌年六月十三日 神道管領長上卜部朝臣 兼連
page=40 :(家筋世代書) 、  記  吾が遠祖をたずぬるに往古の事は詳ならざれど代々の伝言をいう  当社神明宮と申したてまつるは人皇四十三代元明天皇和銅年中の開基にて当国蒲原那拾三座の旧社にて建治年中のころ時々奉幣のありし社といひ伝ふ古へより地名の通り中山神社と称したてまつり当社の奉仕ありけるを中古に至り絶家せとなん其後文治年中鎌倉の臣冨樫左衛門某、当社の裏なる山に楯籠りし時、神社再興におよびしころ冨樫之介家盛と申者社家を相続せしめたりと聞伝へぬ 夫より年経て天正四丙子年九月上杉景勝軍兵を引率し隣村赤谷村の城主赤谷左衛門佐を責るのをり当所戦地となりて代々の記録も焼失せりといひ伝ふ古き記なくして詳かならず近頃吉田殿より神職の許容を得てのち今に伝はりてわかりけるままをささげまつるなり  中狙 冨樫丹波藤原吉長 - 次同 長門藤原吉広 - 次同丹波藤原吉定 - 次同 讃岐藤原吉勝 - 次同 但馬藤原吉清  次同 山城讃岐藤原吉長 - 次同 日向藤原吉信 - 次同 山城藤原吉重 - 当神官 冨樫吉忠迄九代  明治五壬申年十二月三日 天朝之御布告に付右十二月三日より 明治六癸酉年正月元日相来候事 解説 許状は中山村中輿の祖といわれる富樫吉長が明暦四戊年(一六五八)に出されたもので「公式様文書」となっており、 許状写并家筋世代書表紙 許状写