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page=41 :差出所は「位署書」の書法で記され「割り書」されている。同類の許状は他に五通あり。  また家筋世代書は、祠官富樫家のもので古い事は分かっていないが代々の言い伝えとして、文治年中(一一八五~九〇)源頼朝の家臣であった富樫左衛門某が当社の裏なる山に楯籠った時、神社を再興に及びしころ富樫之介家盛という者が社家を相続したとしている。 中山神社由来書    越後国蒲原部新発田    溝口伯耆守領内中山村    中山神社祠官  冨樫越中 由来書  中山神社  祭神 天照皇太神   越後国蒲原郡新発田   溝口伯耆守領内中山村   大鎮守  右当社開基年暦は往古の事故聢と不分には候得共和銅八年勧請の由申伝当国蒲原郡式内拾三座の内中山神社にて霊験有之産子の者獣肉を喰う時は必ず神罪を蒙り候又往古妙義有之産子ども聞伝候は伊勢より降り候神馬と申丈ケ弐尺余位の木馬に管の白根の保呂を掛け廉租の白木御輿に本札を納宿々村継にて大勢賑々敷当村通行有之候処御輿は何分にも隣村赤谷村の方え不進行終に当村に留り其木馬は当社へ奉納相成尓今存在居候当時にても彼木馬麦を喰せし跡と申所宮の辺りに有之侯木札の後は往古の品故文字不分に相成候処先年本社造替の節宅へ移置候処昨年会津御誅罰の砌り当村戦地に相成居宅兵火に遭焼失仕侯其管の保呂を掛ケ候神馬降り候由緒にや当村中菅莚を敷事恐憚候事に御座候往古当社の脇に神手洗池有之侯処数丈の蛇住居いたし里人これを見蛇池と号けたり池の辺に雲を覆ひ候大杉木あり是を蛇杉と唱へ候由に候得ども当村山中に付山崩れ自然池も埋もれて社地追々狭み小社に相成りけるを文治年中鎌倉乱亡の砌り冨樫左衛門来当所に城廓を構ひ候郎●再興に及び当社え為祈念社領被付置候由申伝云々
page=41 : 夫より年経て越後乱軍の砌り当地にて戦軍に相成右の大杉木焼失仕候(古老にいう此時までは御社も大きやうにて殊更蛇池は深々としてありしかと兵火のために彼蛇杉も焼ぬれは風雨にわかに震動山崩れ御手洗の湖水も吐塞り破滅にし及びたるとなん扨又当国湖水の昔山谷辺の国なれば此里此社は古跡たりといへども世の中移り替りて衰微せしと云々)  其後当国領主溝口侯新発田被為打入又新に当社再建に及び社領田畑にて五反半寄付被仰付尓今供用に仕居候右蛇杉の根当時宮の下た土中に有之侯往古は時々官幣下り候と申伝え有之候得ども山中の小村故自然衰微仕り候義に御座候  右は今般延喜式内其外崇敬の神社御取調に相成候趣被仰出候に付社伝奉言上候恐惶謹言   巳    五月   冨樫越中 印 解説 神社の開基は、はっきりとしないが和銅八年(七一五)の勧請とも伝えられている。文治年中(一一八五~九〇)富樫左衛門という人がここに来て城廓を構え神社を再興したとしている。それより年を経た戦国期