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page=42 :において度々の兵乱や災害にあい、集落と共に衰微したと云う。文中に神社の伝承や伝説も伝えており、産子とは神社の氏子のことである。また当国領主溝口侯とは戦国期において新発田氏の後、加賀から入封した溝口氏のことである。この溝口氏と共に多くの人達が加賀からこの地に入ったとも考えられる。
越後国蒲原郡中山村村誌
本村古時不詳地名一二中山ト唱ヒ往古ヨリ樵夫入会洞居或ハ草●一時ノト居ニシテ稍山村ノ形アルノミ文治ノ末ニ至り偶源予州ノ残徒落魄シテ本村処々ニ地宅ヲ占メ既二五十嵐、栗山、清田、津田、猪股、景等各元屋敷トテ其宅地アリ又三淵ノ辺二冨樫元屋敷ト唱フル処アリ是レ昔冨樫介政長ノ邸宅タリ父政親長享二年加州一揆ノ為メ落城二及ビ越中二走り自害シ後政長越後二来リココニ止リテ村功ヲ張リ門葉蕃殖シテ終二中山村ト称シ方今二至リテ村戸十二七分皆冨樫姓ヲ呼べリ故二冨樫政長ヲ以テ抑本村中興ノ基祖トセリ慶長度溝口氏ノ領地二属スルニ及ンテ始メテ村戸道傍二聚リ村勢全ク位置ヲ整ヒ貞享元甲子及ビ正徳延享同氏ノ検地二依り租税屡改正シ従来同領東方ノ境域ニアッテ本郡豊田荘タリ
社
神明社 元標ノ西宅地際二鎮座ス国常立尊相殿宮南方ニ対セリ幣殿東西九尺南北六尺長床上ニ同シ拝殿東西三間南北弐間境内除地東西拾壱間南北九間弐合面積弐百六拾壱坪階前正面華表一基木造高壱丈幅七尺本村ノ住富樫政長延徳三年己酉創立ス祭神国常立尊、天照皇太神祭日毎年九月一日ヲ例トス
page=42 : 但本堂安永七年戊戌十月十六日再建ス古来社格アル事ヲ聞ス一説ニ元慶ノ頃ヨリ中山谷鎮守トテ入会樵者鳥越ノ南麓ニ石叢祠ヲ作リ安シ置ケルヲ政長此ヲ該地ニ遷宮シ新ニ国常立尊ヲ合シ始メ親祭ヲナセシト云徳川幕府明暦ノ度神職維新ノ際ニ当リ当社奉幣本村ノ住冨樫丹波守吉長岡四戊戌始テ神道管領兼連朝臣ニ謁シ神職ニ任シ累代相継テ近来ニ至リ且幕府ヨリ天和貞享再度ニテ都合弐反大百歩ノ地ヲシテ貢米諸役ヲ免シ社田ニ賜ル去ル明治二年己巳庁令ニ依り出石シテ税地トナル今猶伊勢田宮ノ腰寺字ヲ耕田ニ存ス
以下略
(外に●城、幅員、沿革、里程、地勢、地味、税地、貢地、戸数、人数、馬、山、川、橋、堰、道路、掲示場、元標、瀑、堂、寺、墳墓地、水車、民業、物産の項目あり)
右本村誌取調相違無之候也
明治十一年 第六月
右村惣代
清田 辨次
〃 冨樫 敬達
戸長 五十嵐 兵吉
以下略
新潟県令永山盛輝殿
解説 文治の末、源予州(義経)の残党数人がここに落ちのび中々山(当時は中山村)に居住したという。その跡は、各元屋敷という地名で残っている。又三淵という辺には富樫元屋敷という所があり、これは父政親が長享二年(一四八八)加賀一向