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page=43 :一揆の為め敗れて越中に来て自害した後政長越後に来て此処に住して村の為につくし、この所を中山村と名付け一族は周辺に分派したという。
おわりに
以上、富樫家が所有されていた富樫氏の関係する古文書の一部だが所蔵品の一つ一つにも新発田の旧家としての面影が感じられ、時間さえあればもっと調べさせてほしかったとおもった。それにしても、この新発田市の富樫姓の数は、全国的に見て最も多いのは山形県、北海道、秋田県、そして新潟県の順だが、その新潟県の中で一番多いのがこの新発田市である。現在の当主、富樫猛さんは、中興の祖と云われる吉長から数えて十六代目に当たり、先代までは代々中山神社等を所管する宮司であって、江戸時代には苗字帯刀が許され富樫何々守藤原何々と名乗っていたという。
page=43 : また同家の家計図も吉長の明暦四年(一六五八)以降からのものしか残ってなく、明暦以前のことについては戦国期と明治維新の二度の兵火により、中々山集落が焼失して史料がなくなったとのことであ。なお中々山は新発田市内から車で二十分位の山近くの集落で、現在戸数四十戸を数え、内二十戸が富樫姓を名乗っている。中山神社は集落のはずれの山際に建っており、その古さが感じられた。
新潟県内での富樫姓の数は新潟市以北の新発田市、村上市、北蒲原郡と岩船郡で新潟県全体の八割をしめており、山形県の酒田市、鶴岡市周辺に次いでの富樫姓の密集地であり、石動神社の分布も含めて、その関係と繋がりを今後も手繰りたいと思う。
最後になったが長時間にわたり古文書の収撮にご協力いただいた富樫猛さんご夫妻に厚く御礼申し上げる次第である。
調査員 富樫史料研究会
佐久間由孝
宮崎昭男
久保昇
西本正明
東平公夫
中山神社
富樫家の家紋入提灯
調査風景