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page=45 :山形県庄内地方の富樫さんを訪ねて  「野々市町小史」の中に「富樫左衛門尉泰家は、源頼朝の逮捕令に背き、)義経を安宅に通し野々市に帰って居たが、このこと頼朝の耳に達したので頼朝は、大に立憤し、泰家の守護職を解き同時に官をも剥いだので泰家野々市に安住すること出来ず嫡男家春に家を譲り薙髪し、道名を仏誓と号し名を重純と改め、義経の後を追い奥州路へと落ちて行き、義経の潜居せる陸奥国、藤原秀衡の許で、義経に会ったのである。義経、秀衡に請う手て食田を与えた。泰家此処に暫く留まり(土地の女を娶り、)一子庄九郎を遺して野々市に帰り後年歿した。法号を仏誓と称し没年は不明である」という記述がある。  この史料を基に平成三年、当時の富樫卿奉賛会副会長であった(故)中田哲氏らが、鶴岡市社会教育課の情報を受け、泰家が食田を与えられ暫く住み着いた地が鶴岡市の砂谷ではないかとして調査に行っており、その概要が平成四年一月一日発行の「とがし卿」四十六号(富樫左衛門尉泰家之墓発見)に記載されている。  また、富樫姓が全国で一番多いのが山形県で、特に鶴岡市や酒田市など庄内地方に多いことから、その周辺のことを再度調査するため、平成二十一年九月二十五日~二十六日にかけて鶴岡市・酒田市の冨樫さんを訪ねて聞き取り調査を実施した。