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page=46 : 冨樫亜詩子氏・冨樫寛慧氏を訪問(鶴岡市)
まず九月二十五日に鶴岡市立図書館へ冨樫亜詩子氏(鶴岡市文化財保護審議会委員)及び冨樫寛慧氏(洞雲院住職)に来てもらった。
お二人の話によると、山形県や秋田県には曹洞宗の寺院が多く加賀の大乗寺との関係が深いと考えられるとのことで、寛慧氏の洞雲院も元は「天台宗」であったが慶長二年(一五九七年)曹洞宗となり現在第二十七代の住職であるとのことであった。
亜詩子氏によると、わが家の家紋は「扇」であるが、鳥海山近くの富樫家には「九曜紋」を家紋としている家もあるとのこと。なお、この地の富樫姓は主に中世に入ってから現れたものであり、山形市内にある「宝珠山立石寺」の開基、慈覚大師の供人として、この地に入った富樫等六在家の伝承については「とがし郷」五十九号(立石寺と天童市の富樫さんを訪ねて)に関連記事が記されているが、慈覚大師自身が来たものではなく弟子筋の人が来たものと考えられているとのことで、六在家の話を疑問視する専門家もいると話された。
さらに、富樫氏やこの地の有力な豪族であった武藤氏・小野寺氏は、室町幕府の扶持衆でありこの関係で富樫氏が加賀から出羽へ移動したのではないかという極めて興味深い説をお聞きするをとができた。
page=46 : また、この地方の重要無形民俗文化財となっている「黒川能」は室町時代にこの地方に勢力のあった武藤氏が、京より能役者を連れてきて広めたもので現在も伝え続いているし、富樫姓については、江戸時代に作られた中世を舞台とした軍記物に度々登場している。砂谷の富樫の伝承は現在も語り継がれているが、江戸時代にこの地を治めた酒井氏がそれ以前の史料を破棄したこともあって、富樫氏等の中世の史料はほとんど残っていないため正確なことは不明とのことであった。
鶴岡市内にある山王日枝神社宮司の冨樫家には、かって家系図があったが、残念なことに焼却されており調べることはできない。しかし、現在この地に白山神社や石動神社が多くあることからこの地が、加賀とのつながりが深いことは間違いないとのことであった。
洞雲院住職の寛慧氏によると、富樫一族が加賀から船で落ちのびてきたとき、岩船(現在の新潟県村上市)で船が座礁し、富樫一族は離散した。座礁した辺りの海底にキラキラ光るものがあったとの事で、役人がこれを取ることを禁じたが、近くの四家の人が、こっそりとこれを拾い取って浜中村(現在の酒田市)に逃れ、そこに岩船神社を建てたとの伝説があると述べられた。
冨樫文雄氏を訪問(酒田市)
翌日の二十六日は、酒田市平田町にお住まいの冨樫文雄氏(元山形県平田町議・現在酒田市平田地区協議会長・砂越氏顕彰会長)を訪ねて、この地における富樫氏についてお話しを伺った。
文雄氏によると、この辺りの富樫氏は加賀から移り住んできて、ほとんどが最上川の北岸に居住したとのことであった。これは、この地が海抜十メートル程で、かすみ堤防の中であることと鳥海山との関係が深いとのことであった。また、富樫氏が出羽に来たのは、修験者と関係すると思っていると話された。
文雄氏の住む平田町の砂越地区は約五百世帯千五百人程の集