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page=47 :落で隣の飛鳥地区もほぼ同じようなもので、両方合わせて四キロメートル四方に約三千人の住民が住んでいるとのことである。  文雄家の家紋は「三つ柏」で、分家ではあるが本家の家督を継いでいるとのことで、本家の屋号は「仁右門」と称し、幕末の志士「清河八郎」は縁戚であり、一時冨樫家にもいたことがあるという。また、文雄氏の先祖は江戸時代には米商や茶屋を営んだこともあるほか、最上川の船運行により財を築き、現在の平田町の砂越地区に広大な田畑を所有し、地区内で一、二の規模の農家とのことであった。  文雄氏の家には「開かずの長持ち」があり、開けようとする者には悪いことがおきると伝えられているため現在も開けずにおいてあると話された。  最後に砂越城についてお伺いすると、文雄氏は快く、自宅のすぐ近くにあるこの城跡へ我々を案内してくれた。
page=47 : この城は今から約八百五十年ほど前に石黒氏が築いたもので、後に鎌倉幕府の源頼朝から地頭に任ぜられた砂越氏が城主となった城である。最盛期には庄内地方の半分以上を支配していたとのことであった。城といっても鎌倉時代に築城された城のため、方形の平城で、現在は土塁の一部が残っている状態であり、この地域の公園として整備されていた。本丸跡は諏訪神社として、二の丸跡は長応寺となっており、一角に資料館を建築し、中に砂越城の模型や出土品が展示してあった。文雄氏より、富樫氏が一時期この城の家老をしていたとの説明を受けた。  以上、この度の調査においては、泰家に関連することがらは聞けなかったが、別の角度から三人の方々より貴重なお話をお聞きすることができたことをここに報告するとともに、ご協力いただいた皆様に改めて感謝と御礼を申し上げる次第である。    調査員 富樫史料研究会        佐久間由孝        西本正明 砂越城絵図 砂越城土塁跡