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page=6 :新潟・山形県境 念珠関周辺を訪ねて 富樫卿奉賛会 佐久間由孝 はじめに  昨年十月十二~十四日に行なった富樫調査地は、当会発行の「とがし卿」第四十六号で報告のあった山形県鶴岡市砂谷と第五十二号の新潟県の富樫調査地の中間地で、富樫姓の最も多い山形県と新潟県の県境の町、山形県温海町の念珠関を中心に新潟県山北町、村上市を調査してきた。 勧進帳の舞台は念珠関  山形県温海町の念珠関は(古くは鼠ヶ関と言う)、今から千三百年前に開かれており、白河の関、勿来の関と並んで羽州の三大古関の一つであったと言う。室町時代に成ったという「義経記」は、義経の一代記で英雄伝説的色彩の強いものだが、それには義経が文治二年(一一八六)兄頼朝の追討を逃れて、弁慶たち腹心の家来を連れ、山伏姿で越前から加賀に入り、弁慶だけが富樫館に勧進のため立ち寄った(この時弁慶が富樫館から力自慢に投げて見せた「弁慶の力石」が今も布市神社の境内にある)。そして弁慶は大野の湊で義経と合流し越中、越後を経て越後と羽前の国境にある念珠関(鼠ガ関)にさしかかった。だが、この念珠閑の関守が厳しくて通れそうになかったので、義経を身分の低い山伏姿に仕立てて、弁慶は杖で義経をしたたかに鞭打ちながら行くと、関守どもはこれを見て難なく木戸を開けて通したと記されている。  こうして義経主従は奥州平泉の藤原秀衡のもとに着くのであるが、一方この義経記をもとに脚本し、これに能の「安宅」に講談の山伏問答を加えたのが歌舞伎の「勧進帳」とされており、もちろんその舞台は石川県小松市の安宅である。しかし、ここ温海町ではその舞台は念珠関であるという。それは鼠ヶ関は陸奥に入る国境の関所で、隣に府屋がある。府屋とは役人の詰所で加賀の安宅には府屋という地名がない。また鼠ヶ関集落には富樫の姓が多く、関守の冨樫左衛門の緑につながる子孫に違いない。安宅の関の小松市には富樫姓がない。さらにこの付近には義経にまつわる伝説も多く残っている。これは、なじみの薄い奥州よりも加賀の国の物語りにした方が受けると、作者が考えた結果と推測されるとのことである。しかもこの念珠関には、義経一行が海路北上してこの地に上陸したという記念碑も建っている。以上は温海町の関係者から聞き、資料によって知り得たことである。鼠ヶ関集落には五十戸の富樫さんが居られるという。その方々のルーツや位置付けは、まだはっきりとしないが、新たな疑問と興味を持たせてくれる話だった。
page=6 :新潟の山北町と村上市  念珠関から車で四十分、富樫姓が多い新潟県山北町にも行き教育委員会のお世話で町の歴史や富樫姓について話を聞いたが「とがし卿」第五十二号で記した範囲のことしかわからなかった。ただ、同町内の寝屋集落等にある石動神社や白山神社が能登、加賀から勧請されたものと伝えられており、その詳細を調べたい。また村上市に立ち寄り、先祖が慶長年間に加賀から村上市に入り、本家は加賀屋、分家は金沢屋を今でも名乗っているという富樫さんにお会い出来、いろいろと話をお伺いし、今後の情報交換を約して来れたことは大きな成果と思っている。これは、後でわかったことであるが、村上と加賀との関係について触れておきたい。村上藩は慶長三年(一五九八)上杉景勝に代わって越後一国を賜った堀秀治の与力として、加賀国小松から九万石で入封した村上頼勝に始まると言う。そして、本悟寺という寺(もとは津波倉山本蓮寺、村上頼勝の母親の菩提寺)も小松から移っており今も現存しているのである。富樫との直接的な関係がないにしても、加賀との関係が今も残っている村上市。もっと掘り下げて見たいと思う。いずれにしても、今回の調査では具体的な事例はなかったが、古くから加賀、能登とのつながりがあったと思われ、今後の継続的多面的な調査の必要性を感じたものである。  最後になったが、この調査の主力として同行願い、お世話になった故中島康雄さんの在りし日を偲び、ご冥福をお祈りする次第である。