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第四章 古代・中世のころ
(第一節 概観)
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第四章 古代・中世のころ

 

 

==第一節 概観==

 

第一節 概観

  わが国古代国家の形成は三世紀の頃、邪馬台国の卑弥呼による小国統合体の成立から始まったといわれ、四世紀に入り、大和朝廷中心に大和国家成立が固められた。第十代崇神天皇の代、全国統一として四道将軍を地方に派遣、郷土北陸地方へは大兄彦命が派遣された。景行天皇の代、日本武尊は九州の熊襲、関東の蝦夷を征服した。引き続いて成務天皇は諸国に国造を置いてこれを治めさせた。仁徳天皇の代、素都乃奈美留命が加宜国造に任じられ、雄略天皇の代、石撞別命の四世孫大兄彦君が加我国造に定められている。一方、国の規模拡大に応じ大陸との交流を通じて大陸文明の積極的摂取が行われた。北陸の中位にある加賀国では、日本海を隔てて対岸の渤海国・高麗国からの来着や帰国がとくに多かった。その文献の一例を見ると、

 

 

  (注=松任市木津町に「高麗野」と称する地名があり、天保の頃、土地の人が発掘したら、古刀や塔石が多く出た。続日本紀に伝える高麗使輩三十人を埋葬した故、高麗野と遺称したのであろうと加賀志徴に記してある。)

  六世紀に至り、蘇我、物部の盛衰を経て、聖徳太子の偉業は中央集権の改革と仏教中心の飛鳥文化を残し、続いて中大兄皇子、中臣鎌足による大化の改新、戸籍計帳、班田収授法など内政改革が行われた。しかし、平安時代に移り藤原氏筆頭の貴族政治による形式的、惰性的政治体制のため、庶民や地方の実質的施策は行われず、華やかな貴族文化と、その財源である荘園の拡大のみが一方的に発達した。即ち、国司に任ぜられた貴族が任地に赴かず、もっぱら私利をむさぼったため地方政治は荒廃し、治安の乱れと庶民の生活不安を増すばかりであった。そのため実力によって治安維持と土地農民支配を強化しようとする武士団が頭角を伸ばし、遂に中央支配者の貴族階級をしのぐ勢力を持ってこれにかわり権力を振うに至った。その首領が源氏、平家で、互に相争って遂に武家政権の鎌倉幕府開設となり、中世期を迎えた。

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 ▲ 1:第一節 概観 2:第二節 加賀国及び石川郡 3:第三節 郷・庄・保 4:第四節 富樫氏の盛衰と一向一揆 5:第五節 豪族とその遺跡 6:第六節 さまざまな伝承