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付録 3
((一)戦時の産業組合、農業会)
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 [part1]

 

昭和時代

==(一)戦時の産業組合、農業会==

 

(一)戦時の産業組合、農業会

 1、金融恐慌と産業組合

  日本経済は第一次世界大戦による末曽有の好況を経験したがこれに続く大正九年から昭和八年までの十四年間は、長期にわたる慢性的な不況に悩んだ。大正九年の大恐慌を第一回とし、昭和二年の金融恐慌を中間とし、昭和四年に始まる世界大恐慌へ向かって、不況は加速度的に進んだ。この時期の不況は国内の原因によるものではなく、第一次世界大戦によって促進された資本主義世界の全般的な危機の表われであった。昭和二年には多数の銀行が倒産し、財界、金融機関を驚かせ、金融恐慌を起こしている。

  この原因は戦後の慢性的不況の進行過程で、救済インフレーションによってからくも支えられていた脆弱な企業と、これにつながる不良銀行の破産にあった。

  金融恐慌に際して預金は安全を求め、中小銀行から都市の銀行や信託会社に移動したが、一部は産業組合を通してその中央機関である産業組合中央金庫に集まり、これがため産業組合中央金庫は画期的な発展を示した。

  金融恐慌が起こって地方銀行の休業が続出すると、農村の組合にも取付けの不安が生じ、貯金の払い戻しや応急の貸し出しの準備金として、産業組合中央金庫に預金払い戻し、新規貸し出しを求める組合も続出した。

  産業組合中央金庫ではこの要求に応ずるため、取引銀行に対して預金の期限前払い戻しや、定期預金担保の借入を交渉するとともに、取引契約のなかった日銀に国債を担保とした非常借入を申し込んで四百万円の融資を受け、これと取引銀行からの融資を合わせて一千万円の資金を準備し、連合会や単位組合の要求に応じた。

  このため産業組合の貯金がいっそう増大し、中金の系統利用は急速に伸びるとともに、金融恐慌を契接として系統金融は飛躍的に上昇し、系統金融の地位がとみに重要性を加えてきた。

 2、反産運動

  経済恐慌が与えた影響は農民だけでなく、中小企業も同様でその中で商業の苦しさはとくにひどかった。だから恐慌を契機として産業組合が伸びたことに対して反産運動が起こり、それが表面化して社会の注目を集めた。

  昭和四、五、六年と続いて地方の商工会議所は、産業組合に与えられた特権の廃除と取り締まり、商工業者の保護政策を農林省、商工省へ陳情した。

  昭和八年にはいり、反産運動は全日本商権擁護連盟を結成し同年十一月にはその大会を開いて「購買組合、販売組合保護助長の特典を撤廃する」旨の宣言と、商権擁護の決議を可決した。これに対し同年二月、産業組合中央会主催の全国産業組合青年懇談会が開かれ、産業組合青年連盟全国連合(産青連)が組織された。「実践活動を通じ産業組合の正しい発展を図る」ことを綱領として、反産運動に対抗する対反産運動の行動隊として活動した。

  全国産青連の結成以前、各地に結成されていた農村青年(二十〜三十五歳)を中心に、産組青年連盟単位組合(町村組織)連合結成のもと、千石興太郎を中心として農業者による農村経済の自主統制を目標に掲げ、反産運動との抗争に活動した。

 3、日華事変と産業組合

  昭和十二年七月、日本の軍事行動は大陸においてついに日華事変を引き起こした。満洲事変以来の準戦時体制はこれによって本格的に戦時体制に発展した。このような段階において「臨時資金調整法」および「輸出入品等に対する臨時措置法に関する法律」が制定された。

  昭和十三年四月には「国家総動員法」が制定され、これらの法律を中心として政府の統制は次第に国民経済の全般におよび金融、物資の統制を初めとして物価、賃金の抑制、労務動員の配分、利潤分配の制限にまで拡大された。

  このような戦時体制は昭和十六年十二月、太平洋戦争が勃発するに至っていっそう深められた。

 ※輸出入品等に対する臨時措置法に関する法律=最初は主として必需物資輸入資金を確保し、織維品などの輸出を盛んにするため、国内規制を行う目的で発動した。その後は各種の物品の統制に発動した。昭和二十年に廃止された。

 ※国家総動員法=戦時に際して広範な統制の権限を政府に委任した。授権法で、労務、賃金、物資、物価、企業、動力、運輸、貿易などほとんど社会、経済、生活の全般にわたって政府に独裁権を与えた。このために議会主義の勢力は無能化し、戦争指導権は軍部、右翼の手に移っていった。この法律は昭和二十年十二月に廃止された。

 4、第二次産業組合三ヵ年計画

  昭和七年の産業組合拡充五ヵ年計画のあとを受け、同十二年一月、第二次拡充三ヵ年計画を樹立、同十三年から戦時体制による目標を次のように定めている。

 1、産業組合組織による整備拡大と全系統組織の総合的運営

 2、産業組合事業の拡大とその大衆化

 3、都市産業組合の発展

 4、産業組合教育の徹底

 5、各種団体との連絡強化

  組織の整備拡大と全系統組織の総合的運営によって、産業組合を媒介体とし、農業部門を戦時経済体制の一環として組織化し、後に実施された食糧供出制度の基礎を固めることが図られた。また、産業組合教育の徹底によって、超国家主義意識を農民大衆に徹底せしめることであった。

  系統機関の統制強化は昭和十五年九月、全購連、全販連、日本柑橘販売連合会の三団体の合併を決議し、同年十二月全国購買販売連合会が成立した。(現全国農業協同組合連合会)

 5、金融統制と産業組合

  戦時経済の編成は金融の面から開始された。日華事変が勃発して二ヵ月後の昭和十二年九月、「臨時資金調整法」が制定され、戦時における金融統制の基本法となった。この法律の目的は第一条に「物資および資金の需給の適合に資するため、国内資金の使用を調整する」とあり、資金および物資の戦時動員に当たり、これによって資金を集中的に軍需産業に向けることになった。

  政府はこの法律によって銀行資金の流れをきびしく規制すると同時に、金利の引き下げ、国債の優遇、国債売却先の拡大などといった国債消化政策をも強力に行った。

  このような金融統制の強化は、巨大銀行の金融支配力をいよいよ強化し、中小銀行は政府の強力な整備統合促進により、財閥銀行に吸収合併された。

  産業組合の信用事業は単位組合に関する限り、この臨時資金調整法の適用を受けなかったが、産業組合中央金庫、道府県信用連の貸し出しまたは有価証券の応募引き受けは、政府の許可あるいは事後調整を必要とした。

  そこで産業組合中央金庫は信連に呼びかけて、道府県および産業組合を団員とする、産業組合金融統制団を組織し、これによって系統内部における設備費金貸し出しの自治的調整を行い組合金融の整備拡充のため必要な事業を行うことにした。

 6、物資動員計画の実施と産業組合

  戦時経済の編成にともなう物資動員計画は昭和十三年六月から実施され、産業組合は農業に関する物資配給の担当機関となった。

  農業資材のうち飼料は昭和十三年三月から、肥料は同十四年八月から、それぞれ配給統制になった。さらに農機具は同十五年六月から、農薬は同年七月から、生活必需物資は同十六年三月から統制下に置かれ、産業組合は商業団体とともに末端の配給を担当した。

  そのほかクギ、地下たび、石油なども統制され、産業組合がその事務を担当した。昭和十五年を機に肥料その他資材の生産、輸入が乏しくなり、この時期から農業生産力の破壊が始まった。

 7、食糧統制と産業組合

  戦時下における食糧配給の不安は、昭和十四年秋に初めてあらわれた。この年、内地米は豊作であったが、朝鮮米が不作のため輸入量が減り、一方で軍用米の買い付けがあったため、需給のアンバランスを生じた。

  政府は昭和十五年八月、輸出入品等臨時措置法に基き、臨時米穀配給統制規則を定め、県外移出米はこれを全部政府に集中し、日本米穀株式会社を通じて供給を行うことにした。

  これより先、同年五月、米生産県である三十府県に対し、供出割り当ての通牒を発し、同六月には輸出入品臨時措置法による「麦類配給統制規則」が公布された。これによって大麦、裸麦、エン麦の集荷の産業組合一元取り扱いが決定を見た。これが産業組合による一元集荷の最初である。小麦についても七月「小麦配給統制規則」で同様の取り扱い方式が定められた。

  これらの規則によると、販売組合、農業倉庫以外のものは原則として、市町村農会のあっせんがなければ、生産者から麦類の買い受け、または販売委託を受けることができなくなり、市町村農会は地区内の麦の生産および販売見込み量を調査のうえ出荷計画を立て、その集荷には原則として販売組合が当たることとなった。

  米については臨時米穀配給統制規則により市町村農会の出荷統制が規定され、集荷は原則として販売組合が行うよう定められた。県外出荷は組合系統を通じて全販連へ販売され、全販連は政府または日本米穀株式会社以外には売却できないようになった。

 8、食糧管理規則

  昭和十五年十月、輸出入品等臨時措置法による米穀管理規則が公布され、これによって食糧の国家管理が開始された。この規則は米作農家および地主の自家保有米を除く全米穀(三千六百万石=五百四十万トン)を政府の管理米として、これを政府の指定する農業倉庫などに保管し、その処分は政府が臨時米穀配給統制規則によって行うこと、また、管理事務や管理米として出荷すべき数量の割り当てなどは、市町村農会が行うことなどを決めたものである。

  集荷は地方官庁の指導によってほとんど産業組合が行ったが一部府県によっては農会あっせんの形で、若干の商人の集荷を認めたところもあった。

  昭和十六年秋の産米は前年にくらべ六百万石(九十万?)の減収となり、麦においても不作であった。

  太平洋戦争の勃発にともない、食糧需給の見通しが悪化したので、政府は昭和十七年二月、従来の食糧統制の法令を強化、食糧管理法を定めた。

  食糧管理法の主な内容は

 1、統制する主要食糧を米麦のほか、雑穀、穀粉、イモ類、めん類、パンの五種類におよぼし、当面は米麦のみを国家管理下に置き、他の主要食糧も必要に応じ国家管理下に置くということ。

 2、米麦の管理方式としては従来のように集荷経路を統制するばかりでなく、生産者および地主が一定量の米麦を政府に売り渡す義務があることを規定し、政府の一元管理体制を明確にした。

 3、集荷機関については管理米麦に関する限り、産業組合一元集荷の原則を徹底した。

 4、食糧配給機関としては日本米穀株式会社の代わりに食糧営団を設置し、食糧の配給、貯蔵などの事業を行うよう定めた。

  こうした食糧管理制度の実施が産業組合に与えた影響はきわめて深刻なものであった。しかし、産業組合が食糧の一元集荷を行うことにより、その販売事業、信用事業が飛躍している。

  戦時農業政策の展開は金融、資材および食糧の集荷、配給、統制など流通過程の統制は以上のように、産業組合が独占的に担当することになった。これに対し、農業生産過密の統制には農会が当たり、昭和十五年の臨時米穀配給統制規則による米の出荷統制、昭和十六年の農地作付け統制規則による農作物作付け統制、同年の農業生産統制令による農業生産に関する統制などの諸権限が、相ついで農会に委ねられ、統制機関としての農会の権限が強化されていった。

  ここにおいて産業組合と農会の機能が競合し、統制に関する命令系統を一元化するために団体統合の必要性を生じた。

 9、第二次世界大戦と戦時農業統制

  昭和十六年十二月、日華事変はついに太平洋戦争に発展し、それから約四ヵ年、農業部門は戦時統制の強化により壊滅状態に追い込まれ、産業組合は農業統制の強化にともない組織的にも機能的にも決定的な変容をとげ、本来の姿はどこにも見られなくなった。それは戦後、農協が復活するまで協同組合史の断層時代ともいうべき一時期でもある。日華事変以後の軍事動員と軍需産業への労働力の集奪は、たちまちのうちに農業を労働力不足に追い込んでいった。

  昭和十六年十二月、農業生産統制令が公布され、翌年一月からこれが実施された。農業生産統制令の一部を参考までに掲げると

 第六条 市町村農会はその地区内の農業者に対し、特定の農作業につき共同作業その他の方法による農作業の調整に関し、必要なる事項を指示することを得

 第八条 市町村農会は重要農産物の生産確保のため、特に必要ありと認めるときは命令の定めるところにより、その地区内の農業者に対し、その者が当該地区内において農業に従事することを止めんとする場合において、農会の承認を受くべき旨を指示することを得

  として農民の離農を制限している。その後食糧事情がいっそう窮迫したので昭和十九年二月に戦時農業要員令を定め、徴用による軍需工場への離農を全面的に中止し、農業労働力の減少を防止しようとした。この法律は実施されるに至らなかったが昭和二十年の農繁期における労働者不足は四百万人を数えた。

  統制経済下の農地政策としては次のような法律が施行された。

  農地調整法が昭和十三年四月に施行されたあと同十四年十月から価格統制令が、同十六年二月から臨時農地等管理令が公布された。

  日本経済は昭和十六年、第二次世界大戦を前にして、全面的に統制経済を強化した。その結果、産業組合事業の事業量が増加したが、農業生産は逆に低下し、戦争末期には最悪の事態を招いた。

 10、産業組合法公布

  第十四帝国議会を通過した産業組合法は明治三十三年三月六日公布、同年九月一日をもって施行された。

 11、農業団体の再構成

  戦時経済の強化以来、各農業団体の機能が重複し、その一元的統制を困難にした。はじめに農業団体の統制が問題になったのは、農民団体の負担の軽減が理由であったが、戦時経済の強化にともない、むしろ戦時体制の整備が直接の目的に変わっていった。農業団体統合の声は戦時経済の統制強化に応じて上がり、昭和十五年頃から各方面で研究が開始されていった。

  中央農業協力会は昭和十六年九月、農業団体統合の要項を作成し、農林大臣に申達した。この要項案は中央においては指導統制、経済、金融の三本立てとし、地方においては道府県、市町村ごと単一団体とすること、部落農業団体は簡易な法人とし町村農業団体に加入させるなどを骨子とし、農業団体は重要な国策の立案に参画させるとともに、その実行の責任を持たせるなど、当時の農業団体指導者の要求を盛り込み、戦争協力体制への農業団体の割り込みを企図した。

  同じ頃、衆院においても農業団体統合促進の決議をしている。農林省は団体再編成集(農林漁業団体統制要綱)を示した。その内容は次のとおりである。

 一、統合は帝国農会、産業組合中央会、全国購買販売組合、帝国畜産会、全国養蚕組合連合会、茶葉組合中央会議所、産業組合中央金庫の七団体とする。

 二、中央は指導統制、経済、金融の三団体とするが、経済団体は指導統制団体の指導統制を受けること。

 三、産業組合中央金庫は農林漁業の相互金融機関として、農林漁業中央金庫に改組すること、ただし、中央指導統制団体の指導統制は受けない。

 四、道府県、市町村には単一の総合団体を置く。

 五、市町村は部落団体および農業者をもって組織する。

 六、道府県団体は、郡または特別の市の区域に支部を置く。

 七、林業団体、漁業団体、馬事団体は別途に考慮すること。

  しかし、農業団体の統合に関し農林省、内務省の間に意見の相違が生じた。すなわち、内務省は?部落団体を加入させないこと?町村長が町村農業団体長を兼ねること?農業団体の指導監督を地方庁が行うこと、を主張した。

  翼賛政治会において、農林、内務連合小委員会を設け、両省の折衷案のような要綱を作成し昭和十八年、帝国議会に提出、同三月に農業団体法が成立した。

 12、農業会の成立とその性格

  農業団体法による農業団体は、中央に中央農業会と全国農業経済会を設け、地方に地方農業会、町村に町村農業会を設けた。各農業会の行う事業は次のとおりである。

 中央農業会

 一、農業指導奨励その他農業の発展に関する施設。

 二、農業統制に関する施設。

 三、農業に関する調査研究。

 四、農業に関する者の福利増進に関する施設。

 五、各号の事業に付帯する事業。

 全国農業経済会

 一、会員の販売する物の売却またはその加工に関する施設

 二、会員が必要とする物の購買、またはその加工、生産に関する施設。

 三、会員に必要な施設の利用に関する施設。

 四、農業に関する調査研究。

 地方農業会

 一、農業の指導奨励とその他農業の発達に関する施設。

 二、農業の統制に関する施設。

 三、会員の販売する物の売却またはその加工に関する施設。

 四、会員に必要な農業日用の購買またはその加工、生産に関する施設。

 五、会員に必要な農業資金の貸し付け、または農業用施設の利用に関する施設。

 六、会員の貯金の受け入れに関する施設。

  農業団体法の成立により農村の産業組合がなくなり、農業会となったときに産業組合中央金庫は農林中央金庫となった。なお、従来産業組合法によって組織されていた市街地信用組合が昭和十八年三月、市街地信用組合法の制定にともない、産業組合から独立するとともに、新設の農業団体と異なる別個の単独法「信用金庫法」に基く法人となった。

  農業会の組織と産業組合とを比較すると、その性格も組織も全く異なったものになった。

  主な点をあげると次のとおりである。

  農業会の目的については、農業団体法第十条に「農業に関する国策に即応し、農業の整備発達を図り、かつ会員の農業および経済の発達に必要な事業を行うことを目的とす」と規定し、会員のために行う事業よりも国策に即応することを優先させている。このように露骨な国策順応の規定は産業組合法の規定にはなく、農業会の性格を端的に示している。

  なお、農業団体法第十四条は、事業の規定中に「農業の統制に関する施設」を掲げ、農業会は単なる会員のための組織でないことを示しているのも、その性格のあらわれにほかならない。

  農業会の組織に関する規定「農業団体法」第十四条では、地域内で一定の資格を有する者「農業を営む者および耕地、牧野原野を有する者」の当然加入を規定している。この点では県会組織の性格を継承しており、加入脱退の自由を持つ協同組合の伝統は完全に失われた。

  農業団体法第二十九条では役員の選任に関しても、地方長官の任命制をとり、組織の自主性が破壊され、農業会はこれらの点から見て協同組合とは全く異なったものであるといえる。

 13、農業生産の衰退と農業団体

  昭和十七年三月、アメリカ軍がガダルカナルで反撃を開始して以来、戦況は急速に悪化し、日本軍は各地で敗退を続け、戦時経済の崩壊はそれよりも早く、食糧不足を決定的に促進していった。

  戦時中の農業生産力は戦前(昭和九年〜同十一年)を一〇〇とする農業生産指数によると、昭和十四年の一〇六・四を頂点として次第に下降に転じ、同十八年九六・一、同二十年五九・七と激減、終戦時は六〇%にも達しなかった。この意味では農業生産は完全な崩壊を示し、もはや敗戦は必至であった。

  戦後、農薬生産力が戦前の水準に復活したのは昭和二十六年であり、いかに農業生産力の破壊が徹底し、農家経済を窮乏に追い込んだかはいうまでもない。

  戦時中、農家経済は貨幣経済的には受け取り超過を示したがそれは農産物の供出制度と農業用資材、生活資材の供給制限の結果であり、しかも貨幣の受け取り超過は強制的に貯金させられるか、国債の消化にふり向けられていった。慶村経済の窮迫は農業生産関係の矛盾である小作関係の対立激化をももたらした。

  昭和二十年春、アメリカ軍が沖縄に上陸して以来、国内の戦場化がさけられない情勢下において、各職場にある者をそのまま召集し、職域の軍隊化が唱えられた。農林省もその方針に沿って昭和二十年七月、「国家総動員法」による「全国農業団令」を公布して、戦時農業団を解体した。

  昭和二十二年、農民解放の指令に基いて「農業協同組合法」が制定され、農業協同組合の新しい歴史か始まった。

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