郷村の歴史を語る4枚の写真
郷公民館には、野々市町と松任町(現白山市)に分かれた旧郷村の歴史を伝える写真が展示されている。
写真は、郷小学校が廃校となる直前の昭和36年(1961年)撮影の航空写真と校舎の全景、校舎前での記念撮影、講堂での式典の様子の4枚。(航空写真以外は年代は不明。服装などから終戦間際と推測される。)
写真をクリックすると拡大表示されます。
また、PDF版はこちらをクリックしてください。 のっティ新聞第2号「2つの像」もご参考に。 この写真を契機として「郷の今昔」(野々市町郷公民館発行)に目を通してみると、郷村の合併分村当時の様子と平成の大合併フィーバーにおけるの金沢市との合併騒動が重なって見えた。
以下に、合併前後の動きを「郷の今昔」より一部抜粋して紹介する。
■柳町は合併分村の象徴
地図でみると街は周囲を白山市に囲まれていて、野々市を本州に例えるとちょうど能登半島のように見える街です。
昭和31年、旧郷村は2分して旧松任町と野々市町に合併することとなりましたが、飛地となる柳町地区を解消するため、中間地の一部を野々市町に換地したことで今の形になりました。
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町村合併法の失効もせまる昭和31年9月、県の調停により郷村を2分する案が成立し、9月29日、郷小学校で67年間にわたる村の閉村式が行われ、9月30日、柳町は野々市町に編入した。
しかし、周辺の横江・番匠・専福寺・上田中は松任町との合併を選択し、柳町は松任町に浮かぶ孤島となる状況になった。
そこで田中は当時の国道8号線で上田中と下田中(郷町)に分離し、専福寺の北端から約60間の(88筆)上田中地内を野々市町区域に換地(郷町地内)処分し、蓮花寺と柳町を繋ぐことで飛地を解消した。
(野々市町町史集落編より)
■合併前後の様子(「郷の今昔」より抜粋)・野々市町郷地区 現在の郷地区は、堀内、稲荷、二日市、三日市、蓮華寺、長池、田尻、柳町、徳用、下田中が結集して提携して、旧野々市町に合併編入したのが昭和31年である。
それから30余年を経過した郷地区は現在明るくて平和で活気がみなぎっている。しかし今日30年という一つの節目を迎えるにあたり、純農村地帯として歩んできたこの地区が、30年たって大きく都市型へと変わった今日、昔のことが忘れ去られようとしており何とか郷土史に書き残しその姿を後世に伝えることが出来れば、地域の発展の証ともなり、後世の方々の郷土史を知る上の助けになることと思う。現在郷地区を知るには、何をおいても30年前の編入合併当時のことを知ることが重要である。静かで平和であった純農村地帯の旧郷村に、昭和28年より町村合併促進法という時代の波が押し寄せてきたのである。
・旧野々市町の情況 当初石川県が示した昭和29年12月の(合併の)第1試案では、177町村を34町村に整理統合するもので、野々市ブロックの構成は野々市町を中心に富奥・額・押野・安原の1町4ケ村で、人口13,262人を有する合併構想であったが、当時の金沢市は市独自の発展的見地から、いち早く野々市ブロック全町村に、金沢編入の働きかけをしてきた。旧野々市町にも独立派と編入派に分かれて対立する時期もあったが、町議会において独立派が多数であり、金沢編入派議員をつぎつぎ独立派へ融合し、独立派一本の線にほとんど纏めていった。しかし、額村は29年3月、金沢編入を決議し、6月1日、安原町と共に金沢へ編入し、野々市ブロックから脱落した。
野々市町は富奥・押野・郷による1町3村の合体合併と云う独自構想のもとに、運動を展開していった。しかし、同年4月22日の第2回町村合併促進審議会の第2次試案では、常に一体で進んできた富奥村が除かれ、野々市・押野と極めて小規模なものとなってしまい、野々市町にとっては前途暗澹たる情勢に至った。一時的に動揺もみられたが、町民の町村合併に対する意向について町内ごとに常会を開き協議の結果、野々市・富奥・押野・郷の1町3ケ村による合併方針を再確認した。
昭和29年6月30日午前9時に野々市外3町村長ら三役・議長・副議長らが一堂に集い、野々市ブロック町村合併促進協議会結成準備会を開き、さらに同年7月7日に町長福田三次氏は、「29年度中に1町3村の合体合併する」と全員一致可決し、実現に力をつくすことを誓ったのである。
金沢市は野々市町が独立町村結成の方針を強く打ち出してきたことで、逆に大金沢市建設の一角がくずれてゆくので、あらゆる人力物量を投じて、切り崩しの戦いを展開していった。
・旧郷村の情況 郷村は県で出された町村合併の第1次試案では松任ブロックに属していたが、まだ実感として村民には意識されていなかった。翌29年1月の村議会に初めてこの問題が取り上げられ、問題の方向として村を割らないで一体となって合併することで議会でも合意をみ、研究課題として話が進んでいたが、昭和29年2月27日、野々市・富奥の議員が郷村公民館に村議区長の参集を求めて野々市町への合併への勧誘を行った。その後、同年3月に額・安原が金沢市編入を議決してからは、野々市町は郷村を合併させることが出来るかどうかが、死活問題となってきたため、あらゆる手段をつくして、村議区長等有力者層に猛運動を展開するようになった。こうした情勢の中に、昭和29年6月、野々市・富奥・押野・郷の、町村長ら三役と議員が一同に集い、野々市ブロック町村合併促進協議会を開く等、野々市への声が次第に大きくなってきた。一方松任町に地理的経済的に深い関係をもつ集落の中に松任町へ編入の声も高まってきた。議会では、野々市、松任合併促進委員会を設置し、双方の説明を聞き検討に入ることになった。
・始まる紛争 昭和29年6月頃の郷村における議会の情勢分野は、松任編入派と野々市合併派にほぼ二分していた。そこで野々市町はさらに情勢を有利にするために、野々市派に対し強力な応援をし、野々市派住民も親戚知人宅を訪れ、勧誘説得に当たるなど全力を注いだ。そうしている間に同年11月1日には、美川・鶴来町がそれぞれ新町の発足をみ、さらに11月3日には11町村の合併がなって新松任町が発足した。
こうした中で野々市町は、先に押野・富奥の3ケ村と29年度中に合体合併をすると議会で宣言し、努力を重ねたにも拘らず、昭和29年10月28日には押野村が村議会で金沢市編入の議決をし、郷村の合併も順調に進展せず苦闘の道を歩んでいた。ここに於て11月、石川県知事のきもいりで山越石川財政事務所長が就任し、野々市ブロック育成に力をいれだすことになったのである。この動きは、番匠・専福寺・横江等の松任合併派を強く刺激することとなり、11月24日集落公民館に松任派村民が集い、区民大会を開き、「あえて分村を辞さない」と宣言し、議決文を発表し対決の姿勢を強く打ち出してきた。長池・二日市・三日市・稲荷・堀内・田尻・蓮華寺・徳用・柳町など野々市合併派村民は、あくまで分村せず全村あげて野々市町へ合併することを叫び運動を強力に進めていった。
・住民投票
・合併の運命を賭ける選挙戦
・県の合併最終案
・警察出動の村議会
・解決への動き (昭和31年)9月11日、郷村の事態を憂慮した県当局は、午後県庁に正見・松任、兵地・野々市の両村長を招き、「郷村の挙村合併は無理と思われるから何とか円満に分村できないか」と両町の善処方を要望した。これに対し両町長は、郷村側とも相談して検討のうえ、13日に県庁で会うことを約束したのであった。
9月12日、野々市派議員6名と婦人をも交えた同派村民約300名は竹中村長にも同行を求め「松任編入絶対反対」「野々市合併完遂」の大のぼりをつけたバス3台に分乗して、午前10時半抗議のため県庁におしかけた。
この日松任町では、午前11時26分より松任保育園で緊急会議を開き、郷村の松任編入を議決したのである。
野々市派村民は県陳情の前に町議会開催中の松任保育園前に乗りつけ、「編入決議反対の陳情書」を提出し、横江・番匠・専福寺集落に乗り入れて気勢をあげた。野々市町も役場で町議会合併促進委員会を開いて、郷村分村に対する同意を決定した。この日の午後、紛糾する郷村合併問題の成り行きを憂慮した石川郡選出の県議団は、これの調停を決意し、杉原県議が代表となって野々市町役場に同町長を訪ね、「我々、選出県議4名は郷村の合併を円滑に調停するため、同村を松任町と野々市町に二分して分村することを考えた。そこで分村の件と更にその境界線の設定に関し、県当局と郡選出議員団に白紙一任を願いたい。」と申し入れを行ったのである。
9月13日、11日の話し合いに基づき、この午前県庁に於いて、松任・野々市両町長および郷村長は中西県総務部長らを交えて懇談した。その結果「郷村内には合併に関し、意見が対立しているから、もはや分村もやむを得ない。分村についての境界線をどこに引くべきかについては、同郡選出の浜上・杉原・長谷川・大岸の4県議に一任する。4県議は十分に住民の意思を聞いた上定例県議会の最終日である19日までに解決案を出す」ことに意見の一致をみたのであった。
またこの日の午後、野々市町は議会全員協議会を開き、郷地区及び押野村の合併促進について協議し、適正規模達成のため邁進するとの基本線を再確認したのである。
9月14日、前日の決定に関し、郷村は午前10時半小学校で村議・区長合同協議会を開き、この問題について話し合うことになった。
1.野々市・松任いずれか全員一致で合併することを「クジ」で決めるかどうか。
1.分村の境界線を4県議に白紙一任する。
1.一任するとすれば、野々市と松任とどちらへ合併を希望するか。
の3点について、各集落ごとに意見をまとめて、15日午後8時から、さらに協議会を開くことに申し合わせが行われたのである。
9月15日、前日の申し合わせに基づき、村議、区長合同の協議会を小学校で午後8時半より傍聴者を入れずに開かれた。
竹中村長より前日の申し合わせとおり集落の意向を発表してほしいとの提案があって、まず松任か野々市かの発表は行われないことに決め、他の2点について発表した結果、クジ引きで合併を決めることには一集落だけ賛成、他は反対し、次の4県議への一任は野々市合併派の長池・二日市・三日市・堀内・田尻・蓮華寺・徳用・柳町・稲荷の9集落長がそろって反対を、横江・番匠・専福寺・田中の4集落区長が賛成の意向をそれぞれ明らかにした。そこで村当局は、「県は村内に反対があっても、13日の3町村長協定の方針で分村を進めるかどうか」の点につき、明16日直ちに県の意向を確認し、各集落へ文書で通知することを約して9時40分散会した。
9月16日、郷村の合併問題を一任された4県議は、中西県総務部長・篠崎県地方課長らと共に金沢市柿木畑の県集会所で会合し、7時間半にわたり協議の結果、郷村を二分する調停案が成立し、3町村も納得の上「それぞれ18日中に合併を議決して、直ちに県へ申請する。県は19日の県議会に提案して議決を行う」ことが決まり、これでようやく円満解決をみることとなった。
調停内容1.松任町への編入区域及び人口 横江・番匠・専福寺・田中(上)で128世帯700名1.野々市町への編入区域及び人口 稲荷・堀内・田尻・二日市・三日市・長池・蓮華寺・徳用・柳町・田中(下)136世帯822名1.田中は国道8号線で上田中、下田中と分離 柳町は飛び地になるので、専福寺の北端から約60間田中地内を野々市町区域に換地処分して蓮華寺を柳町をつなぐこととした。1.財産の処分 郷小学校・郷公民館は松任町と野々市町で1部事務組合を設置して運営する。 消防格納庫・消防車・巡査駐在所はその所属の集落に払い下げして、代金は松任町と野々市町で分配する。 郷小学校・郷公民館などの財産を分配するときの割合は、戸数割4割、固定資産割3割、住民税割り3割とする。 9月18日、3町村は県から松任・野々市両町建設計画に対する知事意見書の到着を待って、一斉に議会を開くことになった。
郷村の緊急村議会は午後4時小学校に12名の全議員が出席して開かれ、成り行きを見守る住民傍聴のもとに、北議長は町村合併の申請、財産処分、議会議員の任期、松任町建設計画、野々市町建設計画、農業委員会の任期について6件を一括上程、討論をはぶいて原案通り野々市・松任両町への分村編入を可決し、4時5分閉会した。松任・野々市両町も同4時半よりそれぞれ緊急会議を開き、郷村の編入を調停通り可決した。こうして、2年数ヶ月にわたる郷村の合併分村の紛争は終止符を打ったのである。かくして郷村は円満に分村することになった。
9月19日、第3回定例石川県議会最終日の19日、県議会は郷村を分村して、松任町と野々市町にそれぞれ編入の議案を全員一致無修正で可決した。これによって明治22年の町村制施行以来、67年にわたって続いてきた郷村は、完全に消え去ることになった。
9月29日この日午前11時半から、義務教育を共に学んだ心の故郷である郷小学校に於いて、67年の歴史と2年余にわたる紛争に別れをつげる閉村式を行った。