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野々市町「絵まっぷ」


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 絵手紙の「しろひげ先生」こと吉岡幸三さん(本町3丁目)が、「多くの人に野々市町をもっと知ってほしい」との思いで、町の史跡や特徴的な建物を盛り込んだ「絵まっぷ」を描きました。野々市町は、東西4.5km、南北6.7kmと石川県内で一番小さな自治体(面積13.56km2)とはいいながら、町全体を1枚の地図に表すのは難しいため、本町地区を中心として概ね町全域をデフォルメして描き、歴史上の人物などとの関連について解説しています。

野々市 町名の由来
 旧野々市町(富奥村との合併以前)は、大正13年(1924年)の町制施行により野々市村から野々市町になりましたが、野々市の名は「布水」「布市」「野市」「野々市」などの変遷を経て来たようです。

菅原道真と布水
 学問の神様として名高い菅原道真は、幼少の頃より詩歌に優れ、18才で文章生となってからはトントン拍子の出世で、39歳の元慶7年(883年)加賀の権守に任ぜられました。しかし、自分は加賀へは赴任せず、介をして国務に就かせましたが、4年の任期中加賀へ下向の折りに足を止め、木呂川の風光を眺めて「布水、布市」と記したそうで、布水中学校、布市神社の名があります。

富樫家国(とがしいえくに)と野市・野々市の発展
 富樫家の祖は藤原鎌足で、その子孫の藤原魚名の系譜6代・藤原利仁が富樫家1世となり、その子孫の7世が富樫家国です。家国は、高尾山から平地の野々市に館を構え、康平6年(1063年)に能美郡国府村にあった加賀の国府を野々市に移してから発展したのです。そして家国は布市を改め「野市」とし、後に「野々市」とも呼ばれるようになりました。富樫家館跡碑は本町2丁目の工大駅前にあります。

聖護後院道興(しょうごいんどうこう)と歌碑
 聖護院道興は、関白・藤原房嗣の子で、文明18年(1486年)に諸国回遊をして「野々市」に立ち寄り、豆まめしく働く村人を見て詩を詠みました。自らの著述・回遊雑記に下記の和歌を記しています。
 あくれば、ののいちと言えるところを過ぎゆけるに村雨に遭いて、と題し  「風をくる 一村雨に虹きえて のヽいち人は 立ちもをやまず」
 この和歌の詳しい意味は不明ですが、察するに、風も吹き村雨(にわか雨)で濡れながらも立ち去らずに商いをする勤勉な野々市人よ、と詠んだのではないでしょうか。布市神社の境内に歌碑があります。

柴田勝家の火攻めと復興
 富樫家に庇護されて発展した豊かな野々市は、天正8年(1580年)織田信長から加賀一揆討伐の命をうけた柴田勝家が、野々市に火攻めをかけたため全域が焦土となりました。後に焼け野に散在していた村人(現 布市神社の住吉氏子)が、住吉の宮を中心にして東西に長い集落をつくり、その東端を一日市(ひといち)西端を六日町、また中央を中町として、その数字の相当日に布の市を開き立ち上がりました。また、八幡神社の氏子は西町をつくり、白山神社の氏子は新町や荒町をつくり復興しました。

その他、野々市に関係した古人
「木呂川」と「火止め川」
 木呂川は布水川とも云い菅原道真にまつわる川。
 火止め川は住吉川の一部を云い、天明の大火のとき、延焼を防いだことで名付けられ、また山に向かって流れる加賀のサカサマ川として伝えられています。

  ◎「木呂川七つ橋渡り」の企画
 七つ橋渡りは、金沢で古くから伝わる風習で、お腹や下の病に掛かり難く、いつまでも誰の世話にもならないと伝えられています。厳格な作法は、「身を清め新しい下着を身に付け、彼岸の中日午前0時より歩き始め、7つの橋を渡り終わるまで終始無言で行うこと」とされています。
 しかし、吉岡さんは、「もっと気軽に無病息災を願う野々市町らしい七つ橋渡りができないか」との思いから、コミュニティバス「のっティ」を使った「木呂川七つ橋渡り」を提唱しています。

 コースは、のっティ中央ルートの中央公民館からスタートし、野々市町役場前で南部ルートに乗り換えて新庄西で下車。ショッピングセンター裏より、一番橋・往来橋から木呂川沿いに遊歩道を北上し、二番橋・蓬生橋、三番橋・柿の木橋、四番橋・花草橋、五番橋・ころがわばし、六番橋・富樫橋、そして七番橋・かわいぐちばしまでの約45分のコースを一筆書きで渡り、それぞれの橋の中央で、無病息災などを願い合掌します。(注:歩道整備の関係で六番橋と七番橋のあいだで歩道橋を1つ渡ります。)
ののいちガイドマップ

 野々市町役場からのっティ南部ルートでスタートし、新庄南で下車するバージョン2のコースもあります。 ののいちガイドマップ