林口川の堤防敷を利用して設けられた遊歩道での、伯父と姪との、ある日の会話。

 

 「よお、史(ふみ)ちゃん、散歩かね」

 「ああ‥ 伯父さん、この遊歩道、花がきれいなので、時たま来ています」

 「最近はいろんな人が通って、評判はいいようだ・・」

 「気持ちがいいもの。ところで、この前篤志に聞かれたのですが、あそこの橋の名前、『そうごろう』橋と読むんですか?」

 

 「そう。私の若いころは、どんなイワレがあるのだろう・・。佐倉惣五郎という江戸期の有名な人物など連想して、なにか事跡を残した人の名かなとも思ったりして」

 「普通はそう考えますよね」

 「ところが、このあいだ町史を読んでいると、おもしろい記事に出会ったんだよ」

 

旧街道絵図[注1]

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☆太平寺を南北に通る街道を、太平寺街道と呼んでいた。

 太平寺より下林、清金、木津(こづ)を通り、三反田(さんたんだ)、寺井へと続く道で別称、僧殺し街道、坊主殺し街道とも呼ばれていた。昔、太平寺の僧が賊に殺害されたことに由来するという(『加賀志徴(かがしちょう)』)☆[注2]

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 「『僧殺し街道』は、文章を目で追っているかぎり『惣五郎橋』とは何の関連も感じない。だが、僧殺しをかな書きにすると、『そうごろし』となり一瞬あっと思った」

 「へえ、おもしろそうですね」

 「同じ町史に、次のような記事もある」

 

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☆下林地区で僧殺川(そうごろしがわ)とばれた十二人川には十貫橋、大塚川には郷川橋が架けられていた。☆[注3]

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 「いまは林口川と呼んでいるが、この川を僧殺川と昔はいっていたのだ」

 

    ※    ※    ※

 

 県道松任矢作線の昭和46年以前の旧道は、下林南交差点から集落内へ北に入り、下林会館まえで左に折れ、出村(三丁目地内)の南端を通って長竹の方へ抜けるコースだった。

 くるま社会に備えた拡幅工事に際して、集落内の通過をさけ、その当時は水田だった南側の土地に今の形につけかえたもの。惣五郎橋も、その時に新設された。

 

 「その当時の、県もしくは町の工事担当者が橋の銘盤を作成するとき、「僧殺し」橋ではあまりに殺伐・・とおもんばかり、音の似た「惣五郎」を当てたものと考えられる。このあたりは私の推量だが・・」

 「"そうごろし"と"そうごろう"、一字違いですね」

 「『僧殺し』の意味については、柴田勝家、佐久間盛政らの一向一揆衆との戦いで、政敵だった僧侶らの首級を、この街道沿いに曝したという説もある」

 「むかしのことだから、口承にはいろんな尾ひれや変形がつきものということですか」

 「事の真偽はともあれ、長くつたわる地名には、それ相応のイワレというか、その土地に住むひと達の記憶に残る歴史的な出来事が根底にあるのだろうから、一時的な好悪で、そうした伝承をとぎれさせてはいけないと思うよ」

 「そんな深い意味があるなんて、思いもしなかった。篤(あつ)ちゃんの質問から、私が勉強させてもらったみたい!」

 

 初秋の夕刻、川面からの涼しい風が二人を包んだ。二人のシルエットは長く伸び、川向こうの実った稲にまで達している。

 

 

 (2009.8.18)

 注1:太平寺のあゆみ

 注2:野々市町史 集落編 -176-

 注3:野々市町史 集落編 -153-

わが町歴史探索