東に延びる道が改良拡幅されたのを機に、太平寺の旧集落中央部に信号機が新たに据えられた。(平成20年1月)

 これに先だって、旧道と新しい道との間にできた小さな広見に、祠が建てられている。

 

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☆太平寺ホ20番地に「徹通和尚荼毘の墓」がある。高さ67cm、幅33cm、厚さ24cmの自然石に大乗寺開山和尚荼毘墓と記される。町指定文化財☆[注1]

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 「徹通(てっつう)というのは、大乗寺の開祖とかいう・。長坂(金沢市)の大乗寺と何か関係があるんですか?」

 「そこなんだ・、私もつい最近町の講座などで教えてもらったことから、大乗寺の沿革をかいつまむと」

 

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☆弘長3(1263)年、富樫家尚が野々市村に真言宗の澄海を招聘して創建。弘安6(1283)年、曹洞宗の徹通義介を勧請し開山とする。

 その後二代螢山紹瑾、三代明峯素哲と受け継がれるが、室町時代末期の戦乱で焼失する。

 江戸期、前田家などの手で再建され、木新保(此花町)・本多町などをへて、元禄10(1697)年に現在地長坂に移転した。☆[注2]

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 「野々市村なら、太平寺の地内に大乗寺はなかったということですか?」

 「最盛期は、押野丸木から本町2丁目あたりにかなり広い寺域を持っていたらしいが、中世は史料が少ないのではっきりとは分からないようだ」

 「ところで、荼毘(だび)は難しい字ですが、遺体を火葬した場所ということなんですか?」

 「常識的には、そうだろう。昔は、薪や木炭で火葬したのだから、寺や人家から離れた処を選んだと考えられる」

 

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☆『加賀大乗寺史』によれば太平寺ホ79番地が「ダビ」といい、大乗寺開山徹通を荼毘に伏した場所とされる。この付近は明治時代に開墾、その後の耕地整理で石碑の行方も不明だったが、館残翁の尽力で昭和2年に捜し出した。☆[注3]

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移転前の荼毘の墓

 「集落周辺の水田には、かって小字(こあざ) があり、太平寺のダビという呼称も、それにあたる」

 「地名に残る歴史の記憶・・ですか、何丁目何番地では、地図で探すのは便利かもしれないが、先祖の記憶は語れませんね」

 「ものには、長短がある。前にも言ったが、古くからの伝承は、きちんと後世代に伝えていくべきと思う」

 「経済的に繁栄して、今は欲しいものはなんでも手に入るけれど、祖先のひと達の営みの上に、自分たちの生活があるってことですか」

 

 「おっと忘れていた。堀内2丁目にも、大乗開山灰葬塚(はいそうづか)碑というものが残っており、大正時代に行なわれた耕地整理の工事で、太平寺との境川で見つかったと言われているようだ」

 「似たようなものが二つも残されているというのは、徹通が・・」

 「その頃の人達の崇敬を集め、忘れ難い人物だった証左ということかな」

 

 

 二人の故知(こち)問答も、うまくハモったようです。

 彼岸間近の入り日は、西の空に広がる雲を茜色に染めて、昔往と変わらず眩しく輝いている。

 

 (2009.8.18)

わが町歴史探索