玄関のチャイムが鳴っている。
「こんちは・」
「おお、史(ふみ)ちゃん、ようこそ」
「この水仙、いい香り・・」
「屋敷(庭)に植えてあるものだ、今年は雪折れがなくて、きれいに咲いているよ。まあ上がって・」
しばし、近況の交換。
「この前の僧殺し街道の話をウチでしていたら、篤史が『御経塚の地名に経という漢字があるが、なにか坊さんと関係があるの?』と、思いがけない質問をしてきたんです」
「ほう・」
「それで町の図書館で、ちょっと調べてみました」
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☆経塚は、もともと経典を永く後世に伝えるため、地中に埋めて塚にしたもので(中略)、戦国~江戸時代の頃には集落の安全などを祈願して、小さな川原石に経典の文字を一字ずつ書いた大量の墨書石(ぼくしょせき)を塚に埋める、礫石(れきせき)経塚というものが作られるようになった。
御経塚の経塚はその頃のものでこれが町名の由来ともなっている☆[注1]
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「あまり身近だと、集落名としての符丁になじみ、漢字に含められた意味まで考えようとしない」
「私もそうでした、また篤史に教わったみたい・」
「町史だと、そこまでなんだが、もう少し先があるのだよ」
「どんなことですか?」
「先だって読んだ本だが、ちょっと待ってて、いま持ってくるから・」
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☆醍醐寺に出家して聖として活躍していた重源は、大陸から帰朝すると高野山の別所を中心にして勧進活動を行ないはじめた。西行・文覚など遁世の聖や別所の聖たちも勧進上人となり、作善のために「民庶」に働きかけるようになった。
かれらは「民庶」の信仰を集める寺院や鐘・大仏の造営に関わるとともに、橋や道路港湾の修理・造築などの公共性の高い土木事業を精力的に行なっていったが、その作善の勧めのなかでも、直接に仏への結縁を勧める作善が広まり、なかでも念仏の作善を求めたのが法然である。(中略)
広く仏への結縁を勧める作善には、持経・持仏・持戒の三つがあった。持経とは、経典そのものへの強い信仰のことで、経を読む読経、経を書写する写経、経を経塚にうめる埋経などを行なって、経の功徳をたのんだ。☆[注2]
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「町史での ☆集落の安全などを祈願して☆ のところと、この本の ☆埋経などを行なって、経の功徳をたのんだ☆ が結びつくと、意味がはっきり分かりますね」
「そこまでくれば、篤史くんを超えられたか・」
「うふ・、少しは親としてエバれるかも」
「これからは、私の推測になるが、聞いてくれるかな」
「ええ、よろこんで」
「御経塚の集落付近に十人川という川がある。御経塚や少し下流の森戸や松島あたりは、昭和の後期まで、雪解け水や梅雨時期にこの十人川の溢水が、時折ニュ−スで報じられていた。
また、倉庫精錬の工場用地などかっては沼田で、農作業に難儀していたとも聞いている。近くには荒屋という地名もある。
つまり、この辺りは手取川の氾濫原末端として、人力での制御が届きにくい土地柄だったと思える。」
「住宅団地や大型ス−パ−などしか知らない者には、想像もできない・」
「3~40年くらい前まで、この付近に暮らすひと達の生計のなかで、農地は今とは比べものにならないくらい重いもの。
暴れ川の氾濫で、それまで農作物等に投入した労力が、一瞬にして無に帰してしまう。そんな無念を代々繰り返せば、中世や江戸期、神仏にすがろうとするのは理の当然。
暴れ川と、そこに住むらしい竜神を封じて欲しい、鎮めたまえと経を埋めた経塚が、この土地に残された・」
「なるほど・、治水事業がすすんだ近年では、前近代の遺物としか思えないけど、経塚を作った当時の地域住民には、神仏への必死の願いがこもっていたということですか・」
「これまで聞いたり、読んだりしたことを組み合わせたうえでの、私の推測だが・」
「おもしろい、と言ったら怒られるかも、でも、そんな風に考えると歴史がぐんと身近に感じられますね」
「もっと資料を集めないと、自信をもって語れないが、史ちゃんだからしゃべってしまった。まあ、あたらずとも遠からずだと思うがね」
「あら、もうこんな時間、長居しました。少し用事があるので、今日はこれで。また、お話聞かせて下さい」
(2009.8.18)