日毎に伸長する木々の若葉に、春の暖かい霧雨がけむるように降り注いでいる。
「いい雨ですね」
「晴天が続いて、埃ぽくなっていたから少し降ったほうがいいかも・・」
「先日、友だちのHさんから矢作の神社に石碑があるって聞いたのですが」
「ああ、参道脇にあるあれ。たしか聖護院道興(しょうごいんどうこう)の和歌が彫られているものだろう」
「聖護院って、京都ですか? 大根だか蕪菁(かぶら)で有名な・」
「そう、京都の粟田口にある中世の有力寺院で、近江から東海道へ通ずる街道の玄関口ともいえる所にある寺の一つだ」
文明18年(後土御門1486)6月、道興は京都をたち、北陸から越後に入り、関東・駿河・甲斐を廻って陸奥にむかった。
途次の加賀では、小松本折から白山に登拝し矢矯(作)・野々市にいたる。その聖護院道興の紀行詩文集『廻国雑記』には、
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☆こよひハ矢矯のさとといへる所にやと(宿)りけるに、暁の月をなか(眺)めて、
こよひしも 矢はきの里に
ゐてぞみる
夏も末なる 弓張の月
あくれハ野々市といへる所を過行けるに、村雨にあひ待て、
風をくる 一村雨に 虹きえて
のの市人ハ たちもをやます ☆
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と記している。
[注]聖護院は天台系修験本山派の拠点。
当時の関白近衛 房の第三子として生まれた道興(1465~1501)は、幼時に出家し、のち山城国聖護院の29代門跡として、大僧正准三后まで昇った。
(野々市町史 資料編1-537-など参照)
「『廻国雑記』って、坊さんの旅行記とでもいうものですか?」
「そうだろうネ、私も町の郷土史関連の講座などを通して知ったのだが、この時代は戦国時代も近くて、郷土の記述が現れる数少ない資料のひとつという」
「ここに抜粋文があるが、いぶり橋や本折など存問歌とでもいうのか、訪問先の地名を和歌の中に詠み込んでいる。矢はぎや野々市でも同じように地名を折り込んだ歌となっている」
「1486年といえば、富樫政親が一向一揆勢に敗れたという1488年の二年前ですね」
「おっ、くわしいね。そこなんだが、当時の中央政権の中枢にちかい道興が守護職富樫の館に寄らず、直近の矢作に泊まっている」
「何か、わけありってこと」
「和歌もよく読むと、『夏もすえなる』とか『虹きえて』など、富樫の権勢の衰えを暗示しているともとれる」
「伯父さんの推理ですか?」
「矢はぎの『矢』と『弓張』もセットにすれば、矢を射るさまが見え一触即発の民情をうかがわす、とも読める」
「次の野々市での和歌も、意味がよく分からない『たちもをやます』なんかがあって・・」
「たちを『太刀』とか『館』といわゆる掛け詞と読んで、『風おくる』を組合わせると、近辺矢作をふくめ富樫の足下がただならぬ情勢にある」
「へえ−、五百年むかしが、急につい最近のことみたい!単なる紀行詩と読むか、政情視察こそこの旅の主な任務だったと考えるかの差ですか」
「この時代は、各所に関所が設けられ、今のように親書の秘密など無きにひとしい。関所での開封検閲を前提に、文や歌が綴られていると考えるのがふつうではないかな」
「いわれれば、そうですね」
「話が少し飛躍してしまったが、矢作の石碑も時代相を加味してながめると、興味が尽きない」
「ちょっと視点を変えると、すごく面白くなりますね」
眼をそとに転ずると、時雨模様の雨は止み、うす緑の若葉が微風にそよいでいる。姪と伯父とのわが町歴史探索、今回はここらで。
(2009.8.18)