四月、野には近づく田植えに備えて農事にいそしむ人たちの姿が散見され、揚げ雲雀の鳴き声も耳に快い。

 

 「このまえの石碑で思い出したのですが、下林の寺にも何かありましたね」

 「定林寺の入り口にある『三林善四郎(みつばやしぜんしろう) 館址』の碑のことかな。私も平成のはじめ頃、次の文章に接してから少しづつ知識を貯えてきた」

 

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☆『越登賀三州志故墟考』には、天正初めから、三林善四郎が石川郡林郷内の上林・中林・下林を押領し、三林氏を称して賊魁となったが、天正8年閏3月柴田勝家の加賀に侵入した時に滅ぼされたとあり、察するに、善四郎も林一族の一人であったと思われる。上林・中林・下林の三邑を拝領し、三林を名乗ったものと伝えられる。☆[注1]

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 「賊魁(ぞっかい)とは?」

 「江戸期の記録であれば、前田藩の治世。戦いに勝利した織田側からみれば、敵対する(賊)の主たる人物という意味かな」

 「上林とか下林というと、ああ あの辺りかと言われますね」

 「中世の林郷(はやしごう) の中心地域だった。善四郎については、町史にも次のような記述がある」

 

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☆また、史料上では、当時加賀の一向一揆の拠点であった金沢御堂の御蔵衆の一人として軍を率い、南加賀まで進軍していた織田信長軍と交戦する三林善四郎の記録が確認できる。

 天正五年(1577)に能美郡の波佐谷城を拠点にした三林善四郎は、御幸塚に本陣をしく佐久間盛政と戦った。同八年の織田勢、柴田勝家軍の金沢御堂総攻撃に際しては、尾坂口の大手門で防戦にあたった。(掘五兵衛口上書写)

 この戦闘で金沢御堂は陥落し、三林善四郎も一揆方の残党として、討たれることになった。信長公記天正八年11月17日の条には、「加州の一揆歴々の者、所々にて手分けを申し付け、生害させ、頸ども安土へ進上、側松原西に懸け置かれ候なり」として、三林善四郎鳥越城主鈴木出羽守ら19人の首級が安土へ送られたことを伝えている☆[注2]

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 「一揆勢でも、かなり中心的な人物だったのですね」

 「一向一揆には、地ざむらいというのか国人・国衆と称された有力農民も多く、善四郎もそうした家系の一人と考えられる」

 「寺との関係は何でしょうか?」

 「四百年以上もむかしのこと、善四郎とはストレ−トには結びつかないだろう」

 「戦国時代の敗者側だと、古文書なども期待できない・・」

 [とはいえ、地域の有力者であれば念仏道場の創建やその後の維持費にも、応分の負担はまぬがれない」

 「道場と言ったのですか」

 「定林寺は1792年に、僧円了が開いた[注3]とされるから、宗徒が集う建物が既にあったとすれば、真宗では道場と称した。ただ、本町に三林姓の僧侶がおられる、直系でなくとも何らかの縁があるかもしれぬ」

 

 定林寺の門脇にボタンが一株あり、今年も見事な花をつけ、道行くひと達の眼を楽しませている。

 

 (2009.8.18)

[注1] 寺西艸骨著「林一族」-220-より

[注2] 野々市町史 集落編 -151-より

[注3] 太平寺のあゆみ 年表から

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