「このあいだの神社の話を夕飯のとき話題にしたら、あっちゃんが『町に神社は幾つあるの?』と質問してきたんです」
「改めて聞かれると、即答できないもの。私も『昔を語る会』などに出席したりして少しづつ知識を増やしてきたが、町史に明治39年に出された神社合祀令後の変遷を記した一覧表[注1]があり、45社が27社にまで整理統合された・と記されている」
「平成の大合併は市町村、明治は神社の合祀だった」
「上手い例えだな!。いつの世も、中央政府のやることは荒っぽい・。それはともかく、町内27社の中でも、徳用の八幡神社はその由緒が珍しい」
「徳用を『とくもと』と読むのは、変わってますね」
「矢作もそうだが、町外の人には簡単に読めない。ここに、町の歴史ガイド的な小冊子がある」
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☆松任城主鏑木氏の一族で、塚田徳用(とくもと)が居住していた所で、後に田中村から分村したときにその名を採ったとされる☆[注2]
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「ののいち検定の問題に使えそう(笑)ところで、神社の由緒って?」
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☆徳用村肝煎(村長)の仕平の夢に、金沢城内の神様が現れ「徳用村へ行きたい」とのお告げがあり、打ち首覚悟で金沢の金谷御殿へ行き譲り受けの願いをしたところ、殿様も同じ夢をご覧になっていたという。
村民らの熱心な嘆願がみのり、旧藩主前田斉泰が信仰してきた神が一農村の神社に納められた☆[注3]
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「たしかに、珍しい話ですね」
「史ちゃんの学生時代に戻って、明治4年というと・・」
「歴史の問題ですか?。神仏分離令が明治元年・。4年は・・、そうだ廃藩置県が施行された年ですね」
「その通り。地方の出来事も、全国的な流れの影響を免れない」
「村長(むらおさ)の嘆願は、明治4年8月と記されていますね」
「廃藩置県が明治4年7月、村からの嘆願が同年8月となっている。まさに、時勢を巧みに利用した村長の行動と言えないか?」
「なるほど・、激変する世を象徴するエピソ-ドの一つだった、と解釈できるわけ!」
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☆金谷御殿の八幡宮は、江戸でも有名な穴八幡神社の分神が祀られたもの。三代将軍家光をはじめとして、加賀藩三代藩主の前田利常の崇敬も篤く、その後加賀藩において分神を願ったものと思われます。☆
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「江戸から金沢、そして金沢から徳用と分神が繰り返された。その辺の事情を物語る資料が、神社に残されていた」
「町が指定した文化財のなかでも、藩主斉泰が幼少の頃に書いたとされる猿の絵など、ほほえましいわ」
「由緒書きといえば、後世の潤色が多く、事実をあまり伝えていないものが一般的なケ-ス。徳用のばあいは、年代的な近さもあって、物的資料が豊富に残されているのが貴重!」
屋敷地にケヤキや杉などを植えて、家を建て替える際に利用するのが農家の経済・と子供のころ耳にした。だが、昭和30年ころを境に、それらの木々は徐々に姿を消し、農村集落で目につく樹木は、今では、神社地のものが主になってしまった。
光松八幡神社の神号額
(2009.10.13)