日に日に緑の濃さを増した水稲が、目に鮮やかだ。その葉色がすこし浅緑を呈しはじめる六月中旬、穂肥を施す時期となる。

 

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 ☆去る(平成8年)5月21日、中野茂信さん(三納)方で、献穀田のお田植式が行なわれた。五月のさわやかな風が頬をなでる中、しめ縄をめぐらした田で、緋色のたすきに紺かすりの乙女達が一株づつ、ていねいに苗を植えた☆ [注1]

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 「今でこそ、当町は縦横に道が走って便利になったが、昭和40年ころまでは本町地区をのぞけば、水田が一面にひろがる純農村地帯だった」

 「当然、多くの町民の生活基盤は、農業に依存していたわけですね」

 「若い人から徐々に兼業化がすすんでいたが、中高年層はまだ農業経営に誇りを持っていた」

 「献穀って、穀物を献上するという意味ですか?」

 「そう、皇室への献上で、古くからのしきたりに基づくようだ・」

 「中野さんでは田植えだから、お米ですよね」

 「全国では、粟や黍(きび)など他の穀物もあるという。この頃は石川県では、加賀・能登地区から各一戸選ばれていた」

 

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 ☆化学肥料や除草剤などの農薬が使用出来ない制約の中で、10月末に中野さんは無事皇居で献穀を終えられた。富奥地区では、中島栄治(2)・村上弥三郎・小林考次各氏についで、五回目の栄誉である☆ [注2]

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 「農薬が使えないと、草取りなども大変だった?」

 「肥料も油粕や米糠・大豆粕などの有機肥料、収穫後も乾燥機ではなく天日干しなど在来農法というか、むかし流の作業に近い形がとられたという」 [注3]

 

 「選ばれること自体が名誉なんでしょ・富奥地区だけで5件とは、やはり米どころと見なされていた?」

 「昭和20~30年代は、石川農業の中核的地域と自負していたようだ。昭和30年代にかぎっても、33年(1958)収量を競う米作日本一において、石川県一位の中野喜佐男氏を筆頭に、中山武次・田中勝治・木林光一・松村功らの各氏が、県内トップクラスの成績をあげ、あいついで表彰を受けている」 [注4]

 「そのころの面影は、西南部の一部地域に見られるだけですか?」

 「いまでは石碑だけが残る県農業試験場や県立農業短大(現県立大学の前身)の設置でも、そうした地域的特性が誘致条件のひとつだったと思うよ」

 「石川農業の中核地域から、わずか数十年で県内屈指の商業集積地域へと変貌・」

 「50年前も歴史の一環、忘れさられないよう今のうちに、郷や押野地区をふくめて、こうした記録を集約しておきたい・」

 「伯父さん、ますます忙しくなる」(笑)

 

 その年の天候により、3~4日の違いだが、肥料の施用量やタイミングの巧拙が、秋の収穫時の明暗となる故、この時期、朝夕の葉色観察が欠かせない。

 

 

【献穀田へお田植え式に向かう一行】

 (2009.12.7)

 [注1]JAとみおく37号より

 [注2]TOMIOKU(富奥農協創立50周年記念誌)-59-

     野々市町史 -179- (昭和14年の写真)

 [注3]JAとみおく39号参照

 [注4]富奥郷土史 -1241-参照

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