「この前、PTAの会合で友達のKさんとの話で、そこの神社に『村御印(むらごいん)』とかいう町指定の文化財があると聞きました」

 「江戸時代の加賀藩のものだろ」

 「ご印って、印鑑のようなもの?」

 「言葉からすると、そう考えたくなるが、藩から村むらへ下された文書で、いまでいえば、納税通知書にあたるかな・。ここに写真がある」

 

【野々市村村御印】

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 ☆「村御印」は、「加賀石川郡○○村物成之事」という見出しに始まり、壱ケ村草高(くさだか)・・と前提条件のような記述のあとに、「一 七百九拾四石」「免六ッ三歩」などと記されている。草高とは、当時の標準収穫量であり、(めん)六ッ三歩は、その63%を納付すべしという達しである(中略)

  税の中心は米だが、「小物成(こものなり)」といって、山役や外海船櫂役(かいえき)さらに炭役・葭役(あしえき)など、藩全体では、60種類近くの物産に対し相応の賦課があった。☆[注1] 

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 「写真だと、そっけない感じ」

 「文化財という語感からは、少し違和感がないでもない。江戸期の公文書としての史料的な価値からの選定なのだろう」

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 ☆また、「村御印」の左下部に「○○村百姓中」と宛名書きされ、書面の物成は村落に30戸あれば、その30戸全体に課せられたものであり、一戸でも未達があれば、他のメンバ-が連帯責任を負わされた。それ故、村人達の大事な相談ごとの際には、この「村御印」を前に置いて、決め事に背馳(はいち)することが無いよう誓約したという☆

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 「お上からの達しであるぞ、神妙にお受けいたせ・・的。時代劇のシ-ンみたいね」

 「町の広報『野々市の文化財』シリ-ズや、町史編纂にともなう編纂委員らの公開講座などから、こうした史的な意義を教えられた」

 「資料だけでは、そこが分からない。口承が加わって、当時の人たちの受けとめ方が理解できるってことですね」

 「当時は、村落のまとめ役庄屋などの家に保管されていたのだろうが、明治新政府になって文書はホゴと化した。」

 「竹籠や箪笥の奥にしまい込まれ、時が移るとその意味さえ分からなくなり、数代まえの人々の生活実感が、ぷっつりと途切れてしまう」

 「そこが埋まれば、歴史がもっと身近なものになるのだが・」

 「一片の紙切れでも、伯父さんと話してると、想像がひろがり、おもしろくなってくるわ」

 「少し退屈な話になったかな、と思ったが、そう言ってくれれば張り合いがあるよ」

 「Kさんがどのくらい知っているか、検定してみようかな」(笑い)

 「話を戻すと、藩からの文書だから、そこには加賀藩の財政や政情が深くからまっていた」

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 ☆寛永13年(1836) ごろから、危機にあった農村では、18~9年の全国的凶作によりいよいよ荒廃し、農民の貧窮・家臣の困窮という事態を解決しなければならなかった。(中略)明暦2年(1656)に成就した農政大改革[改作法(かいさほう)]は、その根本的な解決策であった。☆[注2]

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 「米が取れなければ、経済もふるわない。経済はいつの時代も、政治の最重要課題ですね」

 「改作法に基づいてだされた「村御印」だから、参考資料として示すだけ。これ以上は専門的な話になるから、今日はこれくらいにしようか」

  初秋の日差しに黄ばみだした稲穂を背に、農道わきのミゾソバ(招来ばな)の紅紫の花が鮮やかなコントラストをみせている。花に近づくと、蜂や蝶が蜜を求めて飛び交っている。

 (2010.2.8)

【下林村村御印の解説】

 

 [注1]村田裕子氏の講演要旨(町史編纂事業)より

 [注2]若林喜三郎監修 「石川県の歴史」-129-

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