「農業といえば、何か大きな石碑が町内にありましたね」

 「住吉町にある『農事社跡』のことだろう」

 

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 ☆かって、(旧)野々市町住民の大半は農業にすべてをかけた。その熱意の結晶が明治9年(1876)に設立された農事社。明治初年、東京学農社で近代農法を学んだ加賀藩士の杉江秀直が恩師の渡邊譲三郎と協力して設立したもの。明治20年、農事社は模範農場と改称され、田区改正を行った。この田区改正こそわが国初の耕地整理だった。☆[注1]

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 「今から百年以上前とはいえ、わが国最初とは・」

 「この記事にあるように、昭和43年に明治百年を記念して、この碑は旧町農民の手で建立された」

 

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 ☆県内では石川郡長の安達敬之が耕地整理に熱心で、その勧奨に同郡上安原村(現金沢市)の高多久兵衛が応じ、石川式田区改正と称される方式を編み出して、村単位の耕地整理を全国に先駆けて実施した。☆[注2]

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 「この辺では、いつごろ、いまのような水田の姿になったのですか」

 「私も昭和生まれでして・・(笑)。野々市町史の集落編に各集落での工事着工や終了時期が書かれており、今の町域では明治43・4年から大正8・9年にかけて一斉に行われているようだ」  

 「身近なところで手本を示されても、すぐに実行したわけではないんですね」

 

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 ☆石川郡においては、明治42年9月皇太子殿下(大正天皇)の北陸行啓を記念とし松任、笠間駅間の鉄道沿線一帯に耕地整理事業を着手し、その後大正全期にわたり、手取扇状平野の大半1万1千ヘクタールの面積を完成した。(中略)当時の実情をみると、みぞれやあられの降る冬期間の服装は、頭巾もかむらず、肌着のメリヤスもまだ現れず、バットあるいはボットといわれるつづれを着、下は紺木綿で作ったももひきをはき、足にわらで編んだ脚絆を着け、わらじ履きで手は手袋を着けるのが大恥とされ、素手であった。雨や雪が降っても、笠とわらで編んだ、みの姿で黙々と働いたのである。☆[注3]

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 「その頃の人たちの、胸の痛むような仕事ぶりが目に浮かびますね」

 「昭和生まれは、いまの整然とした田ん圃しか知らないが、この間ふと手にした本に格好の文章を見つけた。著者は、おとなり白山市山島生まれの方だよ」

 

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 ☆大正4年生まれの私は、大正中期の耕地整理事業が行われる以前の石川平野の情景を朧気(おぼろげ)ながら記憶している。水田耕地に大きな段差があって、少し登り坂の土手に毎年紫色の小さな花が群れ咲いていた。丸石を積んだ狐島は怖かったけれど、野イチゴに誘われて、こわごわ近寄ったら、石の上に大きな蛇が這っていたり、イタドリを齧(かじ)ったり、桑の実を摘んだり、野は幼い頃の毎日の遊び場だった。(中略)土手が崩され、新しい水路が出来て、耕地整理が終わって、一望に見渡せるように変わったのが大正末期だった。曲がりくねったあぜ道が広い真っ直ぐな農道となり、コンクリートの橋が架けられた。あぜ道をゆさゆさ重そうに背負って運んだ稲や野菜が、荷車で楽々と取り込まれるように変わり、作業能率は急速に上がった。☆[注4]

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 「幼少時の風景を、懐かしむ心情が滲む文ですね」

 「それと同時に、その時代に生きた方にしか出来ない貴重な証言だろうね。こういう文章があってこそ、時代の推移が分かるんだよな・」

 「ほんと、眼の前の当たり前と思っていた光景のうらに、数知れぬ先人たちの労苦が詰まっていた」

 「そんな礎のうえに、私たちの生活が成り立っていることを、つい忘れがちになってしまう。心しないとね」

 

 
 

  眠っていても感ずる稲光、しばらく間を置いて体をつき動かすような雷鳴が轟く。そして、ひゅうひゅう吹きすさぶ風が,雪のちかいことを知らせている。人は日々の天候に一喜一憂するが、先人からの遺産とともに、この季節の降雪あればこそ、稲作が成り立っていることをも忘れてはならない。

 

 

 (2010.3.4)

 [注1]北国新聞‘75-7-25「ふるさとピンナップ」より

 [注2]図説 野々市の歴史  -102-

 [注3]石川の米づくりとむら -44-

 [注4]森田昌子著「大慶寺物語り」-29-

わが町歴史探索