「このまえ、篤志が農業体験で稲刈りに参加したんですが、子供たちはおもしろいとか珍しいと、けっこう楽しそうでした」

 「無関心よりはいいけど、刈り取り後に数倍の作業が待っているんだがね」(笑)

 「うふ、篤志に話しときます。いまは、またたく間に刈り取られますが、コンバインを導入する前は、やはりあのように、ひと株ひと株手で刈り取っていたんですよね」

 「私も中学生ころまで、田しごとはひと通り手伝わされた。町史に、そのあたりの記述も散見される」

 

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 ☆秋の稲刈りには、多くの雇い人夫が動員されたが、とりわけ、能登地方からの刈り取り部隊、移動班の活動は昭和20年代から40年代まで続き、早場米奨励の施策とも関係し、多くの人々がこの地で働いた。☆

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  以下、同年兵の縁から三納T家へ応援にきたM氏の回顧録より

 

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 ☆・・早場米奨励金は三段階に日限があり、最初の九月十日の供出(きょうしゅつ)を目指して懸命な取り入れ作業が行われた。早朝五時に起床、洗面もせず裸足のまま田圃へ走るのであった。家族以外に女の人夫が二人、山村から来ておられ、Tさん夫婦と私に五人で朝食前に七畝歩(7アール)田二枚を刈り上げる。只、刈り倒すだけではあったが、朝食は七時半頃であった。八月二十日頃からの作業で残暑はなお厳しく(中略)、加賀の大地に吹く風は異常に暑く今思えば想像を絶するものであった。夜は九時、十時頃まで仕事をし、籾摺りの日は夜半を過ぎることもあった。二十日ほどの期間で二町五、六反の田を全部刈り取り供出まで終えた。☆[注1]

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 「朝に夕べに星をあおいで、そんな仕事の連続・・よく体が持ったものですね」

 「朝星夜星といえば、つい先だって展示された津幡の加茂遺跡を思い出すな・」

 「それ、何ですか?」

 「確か牓示札(ぼうじさつ)といったかな。その第一条に、

 

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 ☆一つ、田夫、朝は寅の時を以って田に下り、夕は戌の時を以って私に還るの状。

 これを現代語に訳せば、農民は寅時〔午前3時~5時〕に田に下り、戌時(午後7~9時)に家に帰れ。となる☆[注2]

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 「いったい、いつの話ですか」

 「施行年月は849年と記され、現存するものとしては日本最古のお触れ書きとされるそうだ」

 「1200年も昔と同じとは、驚きですね」

 「昭和期の収穫作業の、具体的な記述も残されているよ」

 

 

【キラバ積み】

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 ☆稲の地干しは、刈り取った稲をそのまま1~2日天日に干して、そのあと、田んぼの中に、にお積みし、さらに天気のよい日に広げて乾かすものである。その干し方は、「大場」時代は刈り取りが十月になるので南向きに長く刈り束を並べる百足干しをし、これを3回行った。早生になって気温の高い時期に刈り取れるので、放射状型の「渦巻き干し」となり、これは2回で良く、能率が上がるようになった。脱穀調整作業の機械化、地干しの改良などは、端境米出荷に大きく寄与した。☆[注3]

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 「その頃の田圃の様子は、写真にも残っている」[注4]

 

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 ☆地干し、にお積みは金沢平野に行われた独特の乾燥法で、手取川扇状地に限られていた。昭和26年頃から河北郡南部・小松・加賀市の一部にまで広まった☆[注5]

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 「暑いなか、無理して早く収穫するメリットはあったのですか?」

 「支払う労賃を考えれば、早期出荷への加算金は、思うほど旨みがあったものかな? むしろ、端境期(はざかいき)に都会の人々に米を届けるという使命感のようなものだったのかもしれない」

 「米の生産調整があたりまえになった今では、痛ましさが先に立つ・・」

 「なんとも目ざましい時代相の変転。だからこそ歴史や記録に意味があるんだろうな」

 

  三月も中旬になると、農道の路肩や畔にイヌノフグリが可憐な花を淡い陽光に輝かせ、田面に目を転ずれば白いナズナの花がひそやかに咲き始めている。これまで、無人にちかかった野にも、畦の手入れなどに精出す人影が目につくようになる。

 (2010.4.20)

 [注1]野々市町史「民俗と暮らしの事典」-122-

 [注2]津幡加茂遺跡 展示資料より

 [注3]宮森久男「石川の米づくりとむら」-69-

 [注4]「愛と和の町ののいち」-47-

 [注5]中谷治夫「石川の米づくりとむら」-203-

わが町歴史探索