懐かしい街道筋の面影を今に伝える野々市町本町通りと交差する川の橋詰。建物の一部が川面にせり出すようにして建っている工場に気付く人はいるだろうか。車の往来が激しい橋脚の縁石に「木呂場橋(ころばはし)」と刻まれた銘板がある。工場は熱野製材工場、川の名前は「木呂川」だ。

 

 

 「昨年だったか、すぐ近くの国道にかかる橋の改修工事がありましたね」

 「そこから、押野方面へ流れているのだが、その橋より下流は急速な市街化にともない国の二級河川になっている」

 「上流は農業用水なのですか」

 「手取川を水源に、新庄地内からを『木呂川』と称している」

 

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 ☆「木呂川」は、石川平野を潤す手取川七ヶ用水の中で一番東側、金沢市と野々市町を流れる富樫用水に属する。富樫用水は東から①荒川〔現・高橋川〕②木呂川③林口川の三水系からなる。(中略)富樫用水は、手取川七ケ用水土地改良区管理で農水省管轄、それより下流は国交省管轄の二級河川で、用水と治水に分けて管理整備が進められている。☆[注1]

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 「木呂って、何か分からない・」

 「史ちゃんの世代には、無理だろうな(笑)。てごろなガイドブックがある」

 

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 ☆加賀藩では松の木の伐採を禁止していたため、都市部の薪材を補うために白山麓から欅(けやき)を伐採し燃料とした。欅は長さ1mほどの木呂にして川に流し運搬した。木呂揚げ場はその名のとおり、木呂川を流してきた木材を引き上げて集積していた所。約五千坪の広大な敷地は高い土手で囲まれ、この中に木呂川から木材を流し込んだ。乾燥作業は村民の副収入でもあったが、明治22〔1889〕年を最後に廃止された。☆[注2]

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 「木を短く切った薪材をコロと呼ぶのですか。ガスやオール電化の台所では、薪の意味さえ分からなくなりますね」

 「川北町の手取大橋ちかくにも木呂場という地名がある。同じように平野部や小松方面の需要にこたえていたのだろうな。」

 

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 ☆流れを利用し、木材を山から下流に運ぶことを「木呂流し」と呼ぶ。上流の山から伐り出した木材を1~2間の長さにそろえ増水期に、いっせいに流し、下流まで一気に運んだ。☆[注3]

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 「その頃での主要な燃料だった薪材の備蓄地だから、その分配と運搬などに関わる文書も残されているようだ」[注4]

 「少し難しいけど、加賀藩の統制や監督ぶりが窺えますね」

 「ところで、江戸深川を舞台にした時代小説に、おもしろい場面があったよ」

 

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 ☆掘割の中には、丸太や角材が浮かんでいて、そのむこうには大きな筏もみえる。(中略)東吾が笑った時、掘割の中では鮮やかな角乗りが始まっていた。太くて重い材木が、川並鳶の足さばきで、くるりくるりと回転する。それが手始めで、乱れ返し、水車、八艘とび、三段構えなど、数人ずつ、入り乱れての競演になる。見物人の間から盛んな拍手や歓声が湧いて、掘割の中は熱気が渦を巻いた。☆[注5]

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 「野々市の木呂揚げ場でも、そんないなせな姿があったかも・」

 「そう、印半纏(しるしはんてん)の若い衆なんかがね」

 「うふ、想像するだけで楽しくなりますね」

 (2010.6.8)

 [注1]「納税いしかわ」183号 平成18年11月発行 -3- 

 [注2]「ののいち歴史探訪」 -37-

 [注3]能美市立博物館 展示説明より

 [注4]「野々市町史 資料編2」 -355-、-362-

 [注5]平岩弓枝著「柿の木のした」より

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