「自然の恵みと言えば、手取川も外せない」 

 「その手取川によって出来た扇状地が、金沢平野だよね」

 「篤志くんも、もう習っているか。社会科かな・」

 「うん・」

 「そして、平野部の水田を潤す水も、その手取川から引いている」

 

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 ☆今から数えて百年前の明治36年5月24日、ずい道を勢いよく流れ出る水に、人々は歓声と驚きの声を発し、花火30発を打ち上げ、餅をまき(中略)。また、流域の村々では仕事を休み、七ヶ用水完成のお祝いの日とした。☆[注1]

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 「平成14年5月に行われた手取川七ヶ用水百周年記念式典での、土地改良区理事長の挨拶の一部だよ」

 「伯父さんもその席にいたんですか」

 「えへん。(笑) 県知事や台湾の嘉南農田水利会などの来賓を加え盛況だった」

 「写真で見ると、明治の建造物らしくレンガ造りで、がっしりした感じですね」

 

【給水口 明治36年】

 

【給水口 平成14年】

 「洪水・渇水対策などを目的に、オランダ人技師ヨハネス・デレーケの指導下に大水門やずい道などが完成した」[注2]

 「デレーケさんとは、いわゆるお雇い外国人ですか」

 「私も知らなかったが、同じ本に簡単な紹介文が載っている」

 

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 ☆デレーケの滞日期間は外国人技術者の中でもっとも長く(明治6~36年)、この間、筑後川や常願寺川の改修、大阪港や鳥取港の築港など多くの重要な工事に携わったほか、各地にデレ-ケ堰堤、オランダ堰堤などと呼ばれる堰を造っている。☆[注3]

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 「七ケ用水の七ケはどんな意味なの?」

 「いい質問だな。主な水路が七つあるのだが、そこには扇状地の開墾の歴史がからまっている」

 

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 ☆手取川の用水開設は、少なくとも平安後期には始められていたものと言えます。近世の用水文書(「岡野家文書」)には、富樫・郷・中村・山島・大慶寺用水を「石川方五ケ用水」とし、古代の能美郡にある中島・新砂川用水に対し古格の用水であることを示しています☆[注4]

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 「明治36年の取水口合口で、一つの水利組合になったという意味ですね」

 「昭和27年に土地改良区へ組織変え。管轄する水系概略図は、ここにあるよ」[注5]

 

【水系概略図】

 「日本海へゆくまでに、伏見川や犀川と合流してるんだ」

 

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 ☆手取川七ケ用水の水路及び内川水路は、人工的に開鑿(かいさく)したものではなく、かって手取川の流路であった川跡を改修して用水路に利用したものである☆[注6]

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 「金沢市の一部から白山市・野々市町・川北町と行政区域をこえた広い地域ですね」

 「そう、近年は5,000haをきったようだが、土地改良区への組織変更時は7,300haの受益面積だったという」

 

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 ☆水源の安定確保と夏期の渇水対策として、大日川ダム建設が昭和35年に始まり、7年余で完成している☆[注7]

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 「その頃の公共事業は、地域住民のニーズに沿っていた」(笑)

 「昭和30年代まで、夏に干天が続くと『番水』という慣例があったが、ダムの貯水機能に加え農地面積の著しい減少もあって、それも死語と化したようだ」

 「水の来るのがあたり前ではなかった・・」

 「そうだよ。私が子供のころ、数人で鳶口(とびくち)や鍬をかついで家の前を通るのを、目にしたことがある。夕食時にそれを口にすると、親は『番水なのだ』と答えていた。たぶん、下流の押野あたりの農家の人たちだったろう」

 「今は、あって当然と思うことが、数十年遡ると大きな難題だった・」

 「農村部の急激な市街化で、近年は、用水機能より雨水の排水対策が、土地改良区の工事の中心課題になっているんだよ」

 

 (2010.8.10)

 [注1]七ヶ用水No77( ’02-7発行 土地改良区広報紙) -2-

 [注2]心やすらぐ日本の風景 疎水百選  -175-

 [注3]  同上             -69-     

 [注4]「注1」に同じ  -4-

 [注5]手取川七ケ用水誌(上巻) -15-

 [注6]  同上         -39-

 [注7]「注1」に同じ  -5-

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