「このあいだ、友達数人と小松の安宅へ行ってきました」

 「毎年、初夏の風物詩として、こども歌舞伎がマスコミで取り上げられるからな・」

 

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 ☆天保11年(1840)、江戸で歌舞伎「勧進帳」が初演された。ほぼ能「安宅」を踏襲し、富樫と弁慶の息づまる問答が追加され、劇的緊張はさらに強まった。以来今日に至るまで「勧進帳」は頻繁に上演され、時代を超えて日本人の琴線にふれるドラマとして生き続けている。☆[注1]

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 「歌舞伎はまだ見たことがないので、銅像の顕わす仕草や『勧進帳』の意味がよく分からないんですけど・・」

 「私も若いころは同じ感覚で、他人のはなしを聞いていたよ」

 

 

【安宅の関 智仁勇の像】

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 ☆住吉神社のとなりの砂丘が、いわゆる安宅関跡。与謝野晶子の歌碑や弁慶と富樫の銅像がある。1187年(文治3)、頼朝の目をのがれ、山伏に変装した義経たちがここで富樫左衛門尉に見咎められたという、室町期の謡曲「安宅」や幕末の歌舞伎「勧進帳」の舞台である。もとよりこの話は虚構の世界の語りごとにすぎないが、あえてそれを史跡に指定し、巨大な銅像をたてるところに、日本人の“判官びいき”の結晶がみられる。☆[注2]

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 「頼朝や義経は実在した人物ですよね」

 「平家打倒の功績者義経が、一転、追捕の身となり逃亡生活を余儀なくされる。そこを巧みに劇化して、人々の心をつかんだのだろうな」

 「一の谷や壇ノ浦の合戦で目覚しい戦功を上げながら、実の兄から厳しく追求される境涯は人々の同情をさそいますね」

 「天平のころからかな。寺社の造営に際し諸国から寄進をつのるようになり、その趣旨を書いたものが勧進帳とされる」

 

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 ☆安宅の関は、もともと史実ではなく、文学上の虚構の産物であった。室町時代に成立した『義経紀』巻七「北国落ち」に描かれた越前三の口の関、加賀富樫の館、越中如意の渡り、羽前念珠の関などの語りを基調としたものが、『平家物語』『源平盛衰記』の「文覚勧進帳読み」からも影響を受け、やがてそれらが幸若舞曲『富樫』『笈さがし』へと継承され、観世小次郎信光の手で謡曲『安宅』にまとめあげられ、歌舞伎『勧進帳』への道を開いたのである。☆[注3]

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 「筋立てそのものが、長い年月の中で、どんどん変化してるんですね」

 「『義経記』自体が、実際のできごとから200年くらい後に書かれている」

 

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 ☆歌舞伎「勧進帳」で繰り広げられる、義経、弁慶、富樫の緊迫した安宅の関(小松市)でのやりとりは、史実に基づくものではない。あったとしても、「義経記」によれば越中での出来事である。それでは、なぜ、このような舞台設定がなされたかというと、歌舞伎の原作になった謡曲「安宅」が初演されたころ(1465年)、守護代・山川八郎の一族郎党が主君の安泰のために犠牲となって潔く果てた事件があって、これが美談として京都の人々の話題となり富樫氏の人気が高まったことが背景にあるらしい。☆[注4]

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 「それで、歴史的にはさして実績のなかった富樫氏が、歌舞伎の名演目のおかげで全国的に有名になった・」

 「江戸川柳にも沢山詠まれているようだ。一つ二つ拾ってみよう」

 

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  武蔵坊 あたかもまことらしく読み

  咎しめを かんじん帳で 言いひらき  [注5]

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 「おもしろい・。『あたか(安宅)も』や『咎し(富樫)め』など、うまく掛けてありますね」

 「この御所人形[注6]など、江戸時代の『勧進帳』の人気のほどを示す証拠品だろうな」

 

 「まっ、愛らしい。五月の節句にでも飾られたのかしら・・」

 「演劇としての『勧進帳』人気の解説には、次の文章が全てを尽くしている」

 

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 ☆「勧進帳」は、能「安宅」にもとづく一幕物(初演1864)で、これを初めて立案し、演出し、主演したのは、七世市川団十郎(1792~1859)であった。(三世並木五瓶脚色)。義経を強力に変装させ、みずから山伏に変装して、奥州へ落ち延びようとしていた弁慶と、義経の逮捕を命ぜられていた関守の富樫とが、安宅の関で対決する。富樫の部下は義経の変装に疑いをかける。弁慶は通行の証文の代りに勧進帳のそら読みをして、山伏の身分を証明し、義経の変装する強力を叱って殴打する。

 富樫は弁慶の芝居を見破るが、だまされたふりをして、義経の一行を通過させようとする。弁慶の側では富樫が見破っていることを知りながら、それを知らないかのように芝居を打ちつづけなければならない。少なくとも富樫の部下は、変装を信じなければならないからである。かくして富樫と弁慶の相互理解は、全く言葉を媒介としないで、その条件のもとにのみ、成立する。

 もし、相互理解が成立しなければ、富樫か(命令違反)、弁慶・義経(逮捕)か、いずれかが死ぬのである。かくて彼らの暗黙の了解は、言葉による伝達を超える。☆[注7]

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【加賀国安宅関弁慶主従危難救図[注8]】

 

 (2010.10.18)

 [注1]青山克弥ら著「ふるさと石川の文学」-60-

 [注2]県高等学校社会科教育研究会「石川県の歴史散歩」-37-

 [注3]藤島秀隆著「加賀・能登の伝承」-208-

 [注4]八幡和郎著「戦国大名 県別国盗り物語」-238-

 [注5]阿部達二著「江戸川柳で読む平家物語」-233-

 [注6]石川県立歴史博物館発行「れきはく」No90(09・2・1)

 [注7]加藤周一著「日本文学史序説(下)」 -127-

 [注8]勧進帳ものがたり館(小松市安宅) 特別展パンフレットより

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