「このところ、『武士の家計簿』という映画が、ご当地ソング的な話題になっていますね」

 「そうだね。私も4年くらい前だったか、磯田道史著の新書版を印象深く読んでいる」

 「さむらい(武士)といえば、ヤットーというか刀や槍のイメージが先立つのですが、家計簿というのは意表をつかれる感じ・」

 「まさに、そこが出版社のねらいだろう。本の内容は、地味な経済史研究。江戸時代だから身分的には武士だが、今でいえば、県庁の経理部門の役人だと思えば理解しやすい」

 「そうなんですか。近いうちに友達を誘って観にいこうかな・」

 「中身は見てのお楽しみとして・・。ところで、江戸期ではなく、武士の興りというか平安期のこの地の様子が、次の文に出ている」

 

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 ☆11世紀末以降、その姿を鮮明にしはじめる加賀・能登の武士団の主流となったのは、「今昔物語集」の「芋粥」の説話で名高い越前の豪族藤原利仁の末流を主張する藤原(斉藤)姓の領主たちであり、なかでも加賀や口能登で目立つのは、石川平野の東側の拝師郷(野々市町上林・中林・下林一帯)を拠点とする林氏と、その同族を主張するグループであった。☆[注1]

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 「あら、伯父さんのホームグラウンド・」

 「900年以上も昔のことだがね・」(笑い)

 「拝師とかいて『はやし』と読むのですか」

 「そう、上林の神社裏というか、用水路に掛かる橋の銘板にはこの文字が刻まれている。歴史的な資料のひとつとして、白山市菅波の正八幡神社の『南無拝師明神』という神号軸がある」[注2]

 

 「平安時代というと、源氏物語や清少納言の枕草子など国風文化に代表される柔和なイメージが先立つ・」

 「みやこではね。だが、地方では鉄製農具の拡がりに支えられ農地の開墾が進んだよう だ。開発の時代背景は、すぐ、後ろの注釈に

 

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 ☆林氏は、その祖貞光が、林介と号しているところから考えておそらく、最初は、受領の留守をあずかる国衙の在庁官人の一人であり、やがて、手取川扇状地の一角を占める拝師郷の郡司となって、開発の拠点とした外来勢力と思われる。☆[注3]

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  とある」

 「この開発の進展の状況を示すものとして・

 

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 ☆平安時代の中・後期から室町時代にかけて林氏は、その一族を石川郡の各地に配置して支配と開発を進めていた。手取扇状地においては、富樫用水の林口川および郷用水の東川筋の上林・中林・下林地域に林氏、郷用水の先進地である下郷に横江氏を置いて郷用水地域を占め、中奥地区では有力な倉光氏を配し、宮永氏は中村用水の中郷・下郷をおさえ、安田保・北安田保地域には松任氏を配した。

 結局林氏一族は、富樫用水林口水系から山島用水北川水系に至る地域(扇状地の半分を占める)を治める体制を確立した。☆[注4]

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 がある。なまじ歴史専門書より、地勢的に的確な記述が見られ分かり易い」

 「農業生産には、水が欠かせない・」

 「農地の開墾は、用水の制御の歴史でもある。蓄積したノウハウを周辺に展開しながら、林一族は力をつけていったのだろう」

 「白山町に、『ろくらぐち公園』という小公園があって、下林から1Kmも離れていませんね」

 

 「そこなんだよ。林介貞宗から貞光・光家・光明と4代で、70~80年間。地域の有力者としての勢威を保てば、周辺住民から六郎(*身内での通称)勢力圏への入り口(六郎口)という意味合いでの呼称と解釈できないか・」

 「へぇー、伯父さんの推理ですか。なんか私もはまりそう・」

 「当町内だけでなく、旧鶴来林地区などにも、六郎屋敷とか六郎杉といった古称が幾つも残っているそうだ」

 「地名に刻まれた歴史の残影ですか・・」

 「うまい言い方だな。一本とられた」(笑)

 

 (2011.1.4)

 [注1]若林喜三郎監修「石川県の歴史」-63-

 [注2]北国新聞 昭和60年9月4日号

 [注3]注1に同じ

 [注4]手取川七ケ用水土地改良区発行「手取川七ケ用水誌(上)-45-

 [参考文献]図説「野々市の歴史」-30~31-

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