「日本全国を騒乱に巻き込んだ源平合戦の頃、当地の武士たちもその舞台に登場しているようだ・」
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☆「平家物語」巻七に、木曽義仲自らは信濃に有りながら、越前国火打城をぞ構えける。かの城郭にこもる勢、平泉寺の長吏斎明威儀師、富樫入道仏誓、稲津新介斉藤太、林六郎光明、石黒、宮崎、土田、武部、入善、佐見を始めとして、六千余騎こそ篭りけれ云々。☆[注1]
☆寿永二(1183)年、越前国燧城(福井県今庄付近)をめぐる源平の攻防で加賀国住人林六郎光明の嫡子、今城寺太郎光平の闘いぶりが源平盛衰記巻28に記されている。☆[注2]
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「数千、数万という軍勢の動員には、いやおう無しに参戦を迫られますね・」
「源氏方でも、木曽勢に加わったため、義仲の敗死とともに、当地の武士たちの戦功は帳消し・・」
「北陸へも鎌倉幕府の支配権が強まって来たのですね」
「その後、承久の乱まで、中央政権との繋がりは極めて薄い状況だったようだ・・」
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☆関東から送り込まれた守護や地頭の制圧下に置かれていた加賀や能登の武士たちにも、一度だけ、関東の圧力を押しのける機会がおとずれた。承久三年(1221)に後鳥羽院が企てた軍事行動であり、地元武士の名門である林家綱(光明の孫)は、越中の石黒氏らとともに、後鳥羽院方に味方して、反抗を試みた。
しかし、その反撃がみじめな敗北に終わった結果、石川平野の武士団の頂点にあった林氏が没落し、かわって、富樫氏が地元武士を代表するようになる。☆[注3]
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「運が悪い・」
「そのうえ、北條攻めの闘いに、家綱の子則光と孫の弥二郎家朝が関東に向かったため、二人とも鎌倉で処刑されてしまった」
「150年くらいの勢威も、そこで途切れた・」
「リーダーを失えば求心力がなくなり、勢力圏も狭まるのは世のならい・」
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☆承久の乱後の大きな変化は、これらの職権を行使する守護が幕府の指令によってのみ動くことになった点である。☆[注4]
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「京でも後鳥羽上皇は、隠岐島かに流されていますね」
「土御門と順徳院も連座して配流された。これに関連して、ほほえましいエピソードがある」
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☆ミヤコワスレという大変人気のある花がある。「都忘れ」とは、なかなか優雅な名前だが、これには一つの物語がある。承久の乱に敗れて佐渡島へ流された順徳院が、ある年の秋に、庭に一株の白菊が咲くのを見られた。それまで、過ぐる日の都のことばかりを懐かしがっておられたが、この花を見るうちに都のことを忘れられたという。その後、この花を「都忘れ」と呼ぶようになった、ということだが、ミヤコワスレの花は秋ではなく初夏の花である。☆[注5]
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「私もミヤコワスレは好き・。清楚な花だから、その印象と華やかな京の都の対比に妙味があって、いかにもありそうな話になっていますね」
「話をもどすが、林光明時代の富の集積を示す証拠品が残されている」
「何でしょう・」
「白山比咩神社にある鞍だよ。『牡丹文螺鈿鞍』は光明の寄進したものとされ、国の重要文化財の指定を受けている」
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☆黒漆塗地に螺鈿の技法により、牡丹の花を文様化した宝相華文の折枝を配した鎌倉時代の代表的な軍陣鞍である。(中略)林六郎光明が戦勝祈願のために献納したものと伝えられている。☆[注6]
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「素敵。写真だけでも、費用を惜しまずに作られたものと分かりますね」
「平安末期から鎌倉時代にかけての、稀少な工芸品の一つだろうね」
「伯父さん流に言えば、栄枯盛衰の一端というワケ・」
「今日は、史さんにやられっぱなし・」(笑)
(2011.1.25)
[注1]寺西草骨著「加賀武士団の創統・林一族」-22-
[注2] “ -39- いずれも森田柿園著「加賀志徴」からの引用
[注3]若林喜三郎監修「石川県の歴史」-75-
[注4]五味文彦著「日本中世史」-25-
[注5]柳宗民著「柳宗民の雑草ノオト2」-187-
[注6]石川県立美術館編「石川県の文化財―美術工芸編―」-218-
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